①“日本人らしさ”のルーツと和解 令和8年1月18日
年明け早々一月一〇日にNHKの知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の⁉巨大噴火が“日本人”を生んだ⁉という番組において新しい事実が紹介された。…
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日本人らしさのルーツが巨大噴火に起因し、噴火の危機にさらされ続けた人々には自然への畏敬の念が生まれたと説明する。日本人の多くは不安遺伝子を持っているとのことで、それが危機察知能力を高めているらしい。
また日本独特のD―M55という遺伝子が紹介され、それが集団生活をしやすい特徴となっているという。そして協調性が苦難を乗り越えるカギだったと解説していた。 生理学・遺伝学そして地球物理学など様々な分野から捉えた、とても興味深い内容であった。これからもサイエンスによって、新たな事実が解明されていくのでしょう。そうした新事実を知ることはとても刺激的です。
さて、少し別角度で、それ以前の日本民族の誕生から、日本人らしさを考えてみます。日本民族だけではなく、全ての東ユーラシア人は南方ルートでやって来たと、令和二年に東京大学などが公表しています。「多くは」ではなく、「全て」と言い切っているのです。
https://paleoasia.jp/wp-content/uploads/2020/08/0e633bb2dfc46b4c768e76faff5a2bc0.pdf
日本民族のご先祖様となるホモ・サピエンスは約七万年前にインドネシア辺りまで到達しているようです。インドネシアのトバ火山が約七万四千年前に噴火するのですが、インド南部ではその火山灰層の下から石器が出土する。 また、オーストラリアでは約六万五千年前の刃部磨製石斧が出土している。これは研磨した石斧であり、これを手にしたからこそ、大木を切り倒して丸木舟を造れるようになったのです。
その丸木舟に乗って九州西南端の黒瀬海岸に到達したのが約四万年前となる。当時の地球は最終氷期の真只中でした。海面が今より百メートル以上低く、そのため本州と四国・九州は陸続きとなっていて古本州島と呼ばれる。同じくインドネシアの島々も大陸と陸続きとなっていてスンダランドと呼ぶ。インドネシア辺りまでは歩いて到達できたのです。
スンダランド内の現在のカリマンタン(ボルネオ島)辺りから舟を漕ぎだして、沖縄の島々を経由しながら、古本州島に到達するとちょうど黒瀬海岸あたりになる。日本神話の伝えることが事実であると理解できます。世界有数の強い海流である黒潮を突破し、約三千キロの大航海を成し遂げたのです。その黒潮に乗ってしまうと太平洋のど真ん中に流されて、ただ死を待つしかない。自分の力では突破できないと悟った時には既に手遅れであり、もう後戻りはできない。そうして多くの人々が死を迎えたことが容易に想像できる。
この危険な大航海を成功させるためには、使用する舟に絶対条件がある。まず、天を駆けるほどの速さが必要となる。スピードの出ない舟では黒潮を突破できない。 そして岩のような重さも必要となる。草束舟はスピードが出るけれど、軽いので黒潮に流されてしまうのです。つまり、天を駆けるほど速く、岩のように重い舟でしか突破できない。だからこそ、その舟を『天磐船(あまのいわふね)』と呼ぶ。日本神話は事実を伝えているのです。
この大偉業を成功させた人々は、たったの千人しかいない。それは核DNAの解析によって、日本民族の最初の集団はたったの千人しかいないと指摘されているのです。スンダランドの先端まで歩いて到達したホモ・サピエンスは約三万年間をそこで過ごし、それから日本列島に到達したことになる。それほど長期間を過ごせば、集団は数十万人規模にはなっていたでしょう。それでも、日本列島に到達できたのはたったの千人しかいない。それほど命がけの挑戦だったのであり、日本民族のご先祖様たちはフロンティアスピリットの塊だったのです。
命がけの大航海を成し遂げたのは、とてつもなく強靭な人々だった。丸木舟を五人か六人で漕いでスピードを出します。一人一人が欠かすことのできない大切な動力源なのです。しかも、沖縄諸島には次の島が水平線の下となって目視できない島もあります。それを昼も夜も休まずに、渡り鳥の飛んで行った方角を信じて漕ぎきるしかない。夜間は月や星を目印にするしかなく、従って天体の動きにも精通していなければならない。こうした条件を全てクリアできた舟だけが日本列島に辿り着いたのです。
丸木舟は転覆することはあっても沈没はしない。横波を受けて転覆しても仲間同士で助け合って全員で舟に乗り込む。仲間(動力源)を見捨てることは自分の死に直結します。だからこそ強い仲間意識が生まれる。他者の命を救うことは、自分を救うことと同じ意味を持つ。正に「情けは人の為ならず」です。こうした結束力の強い人々が日本民族のご先祖様たちなのです。そして和を尊ぶ日本民族へとなっていきました。だからこそ縄文時代までの日本では仲間同士の殺し合い、戦争が起きなかったのです。
しかし、やがて約三千年前になると日本は大きく分断していくことになる。水田稲作を受け入れるか否かで分かれていったのです。穏やかな農耕社会を築こうとするアマテラスと、外洋航海民族であり続けたいスサノオの対立する姿が記紀に描かれています。姉神アマテラスが大切にしている田んぼを、スサノオが繰り返し破壊する行為が記されている。
この流れは近年まで続き、最後まで狩猟民族であり続けたのが北の夷・アイヌなのです。(外洋航海は江戸幕府に察知され文化四年・一八〇七年に禁じられた。)
夷は朝廷と別の道を歩んだとしても日本民族です。そして朝廷から夷を征することを託された征夷大将軍が日本の政治を司ってきました。どちらも日本民族なのであり、アマテラスとスサノオの和解を目指すべきです。つまり夷(アイヌ)の居た土地も日本固有の領土なのです。『蛍の光』四番ではこう歌っています。
「千島の奧も沖繩も、八洲の内の護りなり。至らん國に勳しく努めよ我が兄、恙無く。」
縄文アイヌ研究会
主宰 澤田健一
◆目次
①日本民族は南からやって来た ![]()
②縄文時代がもつ意味を考える ![]()
③私たちは何処から来たのか ![]()
④「古代DNAで迫る 日本人の来た道」を見て ![]()
⑤縄文人とアイヌの関係 ![]()
⑥最近の遺伝子研究から見えてきたこと~日本人のご先祖様 ![]()
⑦後期旧石器時代の世界と日本 ![]()
⑧古代エジプト文明を築いたのは縄文人 ![]()
⑨サピエンス日本上陸~夷の誕生 ![]()
⑩世界各地から縄文土器が出土する ![]()
⑪『縄文のムラと暮らし』 ![]()
①日本民族は南からやって来た 令和7年2月18日
北海道中央バスのCBツアーズに参加して道東の遺跡や博物館を見学してきました。…
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その中で遠軽町埋蔵文化財センターの見学があり、北海道で2つ目の国宝となった黒曜石を見てきました。黒曜石でできた完成品の石器だけでなく作製途中ででる削りカスもすべて含めて国宝になっている、特殊な国宝です。

学芸員の方が詳しく解説してくださり、単なる削りカスに見えたものが実は製作過程を知る重要な手掛かりとなっていることを説明してくれました。
そんな中、参加者のお一人が「日本民族は何処からやって来たのですか?」との質問があった。すると学芸員はハッキリと「南からやって来ました」と答えられていた。
自分は平成末から執筆活動に入りましたが、その頃は「日本民族のご先祖様は南方から渡来した」と言ってもほぼ100%否定されていました。「北方から入ってきたのは絶対に間違いない」と言われましたし、それは学会の結論であると著書には記されていました。
それが近年の核DNA解析によって日本民族だけではなく、東ユーラシアに住むすべての人が南ルートだと発表されています。(『縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史』令和2年8月25日 東京大学・東京大学大学院・金沢大学)
これから正しい歴史観が広がっていく期待を感じることができます。
「日本民族南方渡来説」は確実に広がり定着していくことでしょう。
縄文アイヌ研究会主宰 澤田健一
②縄文時代がもつ意味を考える 令和7年2月26日
近年になって縄文時代の評価が急上昇しているように感じる。縄文の真の姿が次々と明らかになってきた。20世紀後半の思想界をリードした…
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知の巨人と称されるフランスの社会人類学者クロード・レヴィ=ストロースは縄文土器の素晴らしさに触れて、「人類諸文化のすべてを見ても、これに比肩できるものはありません」と述べている(「月の裏側」中央公論新社)。他とは比較にならないほど素晴らしいと絶賛しているのは土器だけではなく日本文化そのものなのです。そして同著で「日本の人々が、過去の伝統と現在の革新の間の得がたい均衡をいつまでも保ち続けるよう願わずにはいられません。それは日本人自身のためだけに、ではありません。人類のすべてが、学ぶに値する一例をそこに見出すからです」とまで述べている。
論旨を簡単に解説しますと、いま人類は暗い未来に向かって進んでいるが、その暗い結論を変えることが出来るのは唯一日本民族だけだと言うのです。日本の過去の文化を保ち続け、そしてそれが世界に広がると人類の未来は明るいものになる可能性があると言っているのです。過去の日本文化が大事だということであり、日本文化の基礎をなしているのは間違いなく縄文文化なのだと解説する。それは縄文文化が世界を救うと言っているのです。
それほどまでに賛美される縄文時代の姿を見ていきましょう。縄文時代は原始の世界どころか最先端の社会だったのです。他のすべての民族が打製石器しか持たずに洞窟や木陰に身を潜めて生きていた頃、縄文人だけは屋根のある家に住んで集落を形成し、煮炊き料理を味わいながら磨製石器や芸術的な土器を作っていたのです。他民族が動植物を生のまま食べるか焼いて食べるしか出来なかったころに、縄文人は煮炊き料理を出汁でコクをとって美味しく味わっていました。集落には数十から二百以上の貯蔵穴があって、それは食物を貯蔵する穴蔵であって、そこに栗やドングリなどの堅果類を満載していた。それがあるからいつでも食べられる、つまり飢えることがないのです。
それほど文化的で食糧の心配がない集落は争う必要がありません。世界各地では食糧が不足して飢え始めると争いの引き金となります。戦争が絶えない大きな一因です。縄文時代の日本では争いの形跡が見られません。一万年以上も戦争のない社会は世界中見渡しても縄文日本しかありません。そのため集落の営みも非常に長期間にわたり、ユネスコの世界遺産に登録された函館市の垣ノ島遺跡などは約六千年間も継続しています。さらには北見市の常呂遺跡と標津町の標津遺跡群においては約八千年もの長期間に渡って集落が営まれていたのです。
戦争のない平和な集落が六千年も八千年も持続する、SDG‘sの理想モデルでしょう。それほど長く続いた集落など海外には一つもありません。レヴィ=ストロースが縄文日本に世界の救いを求めるのも納得がいきます。では何故それほどまで長期間にわたって戦争のない平和な社会が実現できたのか、それを考えていきましょう。
食料資源の欠乏が争いに発展することは容易に想像が付きます。しかしそれだけが理由であるはずはありません。人間の欲望には限りがありません。様々な原因をきっかけとして争いごとが起こりますが、縄文時代には戦争の形跡が見られないのです。矢の刺さった人骨も見つかりますが、不慮の死の割合は他民族と比較すると圧倒的に低いのです。他国では首や手足がない遺骨なども発掘されますが縄文人には見られない。おそらく矢が刺さったのは狩りの最中に不幸にも仲間の流れ矢に当たったものだと考えられます。明治期のアイヌにも仲間の仕掛矢に当たって死んだ例があります。
つまり縄文人は仲間を非常に大事にしていたのです。五、六人乗りの丸木舟で外洋航海をしていた人々は、一人でも仲間を失うと航海に支障をきたします。丸木舟は転覆はしても沈没はしません。海に投げ出された仲間は必ずみんなで助けていたでしょう。また体重が四百キロ以上もあるメカジキやさらに大きいサメやクジラ漁までやっていました。全員の一致協力が必要不可欠です。現在のマグロ漁は電気ショッカーや巻き上げ機を使ってエンジン付きの高速船で行なっていますが、縄文人はそれを丸木舟に乗って素手で行なっていたのです。そこに和を乱す者が一人でもいれば命とりになってしまう。そうしたことから聖徳太子の「和を以て貴しとなす」とする日本人の和の精神が育まれていったのでしょう。
それに加えて、自然を大切にし、自然と共に生きるということを徹底していたのだと思います。貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、摂取した生き物の命に感謝し、天に送り返すものだったと解釈されますがとても納得がいきます。「いただきます」という挨拶だけでも哲学を感じます。あらゆる食物の命を「いただきます」というのは素晴らしい思想だと思います。総てに感謝を持って生きていた、だからこそ平和な時代が一万年以上も続いたのでしょう。他者や自然を敬いながら総てに感謝を持って生きる、それをレヴィ=ストロースは「人類のすべてが、学ぶに値する」と評したのでしょう。
③私たちは何処から来たのか 令和7年3月14日
どんな本を読んでも、日本民族の渡来を書いてあるものは、すべて北方進入説を説いていました。…
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それがどうしても不思議でならなかったのです。原始人は着の身着のままでシベリアの冬を生き抜いていたのだろうか……。子供のころからその疑問は消えることがなかった。
日本神話では瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は舟で薩摩の黒瀬海岸に上陸したことになっている。南の方からやって来たからこそ、九州西南端にたどりついたのです。こちらの方がずっと合理的だと思うのですが、戦後日本の学者たちは日本神話など創作されたものであって真実ではないと言っていた。
ところが、アイヌが神事に用いる“イナウ”は南方のカリマンタンに住む人々が持っている“けずりかけ”とまったく同じです。アイヌの口琴であるムックリを、アボリジニが奏でていて、マオリ族も持っている。アイヌ犬はカリマンタン辺りの犬種と同じ遺伝子を持っていて、南方犬であることが指摘されている。
古事記でも日本書紀でも殺した女性神のからだの各部位から様々な食物が生まれてきますが、これも南方のニューギニアおよびその周辺のハイヌウェレ神話そのものであり、特にニューギニアのマリンド・アニム族のマヨという祭儀では、実際に少女を殺してココヤシの果樹の豊かな実りを祈っていた。残酷な祭儀ですが、古代社会では広く人身供犠が行なわれていたのです。
インドネシアの洞窟には約五万年前から多くの動物壁画が遺されていて、そのほとんどがイノシシであり、それは縄文時代のイノシシ信仰につながる。縄文時代の日本列島全体で、しかも北海道や伊豆諸島などイノシシが生息していない地域でも、子供のイノシシ(うりぼう)を殺して神に捧げるイノシシ祭りが行なわれていた。その骨は強く焼かれているのです。動物土偶の多くもイノシシであり、インドネシアの壁画と同じ傾向を示している。
どう考えても南からやって来たとしか思えません。それを平成末から執筆しはじめたのですが、全く受け入れられませんでした。学者の書籍では、「日本民族が北から入ってきたのは間違いない」とか「それは学会の結論である」とか書いていたからです。
さて、令和元年5月13日に国立科学博物館や国立遺伝学研究所・東京大学など七研究機関合同で、現代のアイヌは(一万年以上前の)縄文人の遺伝子を約7割も受け継いでいると公表した。それまでアイヌと縄文人は関係がない、アイヌは日本民族ではなく北方民族だとする意見が多くあったものの、それが否定されることになりました。令和に入ると流れが大きく変わったのです。
翌令和2年には東京大学・東京大学大学院・金沢大学の合同研究によって、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々は南ルートでやって来たと公表された。日本民族も南ルートでやって来たのです。
しかも、同報告では縄文人の核DNAは東ユーラシア人の根に位置しており、東ユーラシア人の創始集団であることが指摘されている。つまりヒトの流れは大陸から日本列島に入ってきたのではなく、日本列島から大陸に出て行ったということなのです。従って、シベリアから日本列島に入ってきたとする学説は二重の意味で否定されることになりました。
ここでDNAについて簡単に説明しておきます。それは4種類の塩基というものが連なってできているのですが、核DNAの塩基数は約32億個もあり、これがヒトの完全な設計図です。この遺伝情報は両親のものが子に引き継がれます。ですからこれを読み解けば人類の系統樹が描けるのです。少し前までは、簡易なミトコンドリアDNAを解析に用いていましたが、これの塩基数は約1万6500個しかなく、しかも母親の情報だけしか娘を通して引き継がれません。そのため非常に限られた情報しか得られていなかったのです。
こうした核DNA解析技術の飛躍的な進歩によってヒトの設計図が完全に読み解けることになり、驚くべき事実が次々と明らかになってきたのです。昨年(令和6年)には理化学研究所が、3256人分の日本人の全ゲノム情報分析に基づいて、私たち日本民族はネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子を持っていると発表しました。以前から日本人の核DNAは他のホモ・サピエンスの核DNAとはまったく別の位置にいることまでは分かっていましたが、それはネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子混入が原因だったのです。
まとめると次のようになります。南方ルートでインドネシアまでやって来たご先祖様は、そこから丸木舟に乗って日本列島までたどり着いたのが約3万8千年前です。その時点で日本各地から石器が一気に出土し始めます。
ここでネアンデルタール人やデニソワ人と混血をして日本民族の原点となる「夷」の遺伝子が誕生しました。一般的に縄文人遺伝子と呼ばれますが、3万8千年前は縄文時代より遥か以前であり、「夷」遺伝子と呼ぶべきだと提唱しています。その「夷」遺伝子は現在の日本人すべてに受け継がれ、特にアイヌに強く残されているのです。さらには、ご先祖様たちは大陸へと進出していって東ユーラシア人の祖先となっていったということです。
④「古代DNAで迫る 日本人の来た道」を見て 令和7年4月8日
4月6日(日)にNHKEテレが放映した「サイエンスZERO 最新報告 古代DNAで迫る 日本人の来た道」を見ました。そして驚きました。…
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国立科学博物館の篠田謙一館長も神澤秀明研究主幹も、「日本人の先祖は南方から入ってきて、その子孫が縄文人と考えていたが、縄文人には北方の要素もある」という趣旨のことを言っていました。
これまでは北方進入説をとっていてそれを学会の結論だとしていたと思うのですが見事な変わり身です。そうであっても南方説を説き始めたのは大きな前進です。
番組では旧石器人がそのまま縄文人になったのではなく北東アジア人と混血して縄文人となったと解説していました。これまで日本民族は単一民族ではなく雑種だと言ってきたから、そう誘導しているのではないかと勘ぐってしまいます。
しかしそれは完全に誤りです。
①『縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史』(東京大学・東京大学大学院・金沢大学)の指摘。
「現在のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している」
「IK002(注:縄文人骨)の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の”根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった」
「縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統である」
②旧石器時代の北東アジアにいたのは日本民族のご先祖様たちです。
北東アジアには旧石器時代を代表する遺跡がいくつもあります。
そこから北海道で誕生した細石器が出てきますし、日本民族にしか作れない石製品が出てきます。
『古代東ユーラシア地域と「縄文アイヌ」の関係』
番組の解説はこれらの研究結果や遺跡出土物の状況と完全に相反します。
縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統であり、東ユーラシア人の創始集団なのであれば、子孫の遺伝子が祖先の遺伝子に影響を及ぼすことなど不可能です。
これらを踏まえて合理的に解説すると以下のようになると思います。
旧石器時代は最終氷期の時代であり地球は物凄く寒かった。
それでも日本民族は北海道にまで達していて北海道産の黒曜石で細石器を作っていた。
その人々は東ユーラシアにまで足をのばしてそこに多くの遺跡を遺した。
最終氷期の北海道は大陸と陸続きになっていて犬ぞりに乗ればどこまでも行けた。
そしてそこで東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の祖先集団となっていった。
日本の後期旧石器時代は2万2000年も続いたので日本列島に居続けた人々と、大陸で暮らす人々は違う進化の道をたどった。
気象条件や食べるものなどの生活環境が大きく異なれば2万年は充分な期間だろう。
そして外に出て行った人々が何らかの理由で日本列島に戻ってきた。
その人々は元々同じ人々なのでスムーズに交わっていった。
こう考えれば総ての条件を満たしながら合理的に説明が付くと思います。
ただし、北東アジアからの遺伝子混入は弥生時代になってから本格的になることも付け加えておきます。
『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』(金沢大学・富山県・鳥取大学・岡山理科大学・愛南町)
『全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴』(理化学研究所)
この論文では弥生時代になって突然北東アジアからの遺伝子混入が始まったように勘違いしそうですが、縄文時代から徐々に始まっていたと考える方が自然だと思います。
そうするとより大きな流れの中で合理的に理解することができます。
⑤縄文人とアイヌの関係 令和7年4月17日
多くの学者は「アイヌは12~13世紀頃に北から北海道に渡ってきた北方民族」だと説いていました。アイヌ語と現代日本語はまったく別物であると説明する人もいました。そうした中でも、アイヌは縄文人の子孫であると考えております。…
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それを平成末から書き始めました。縄文からアイヌへと引き継がれている技術に編布(あんぎん)という織物があります。これは縄文時代に日本全国で使用していたものですが、弥生時代に入ると編布は日本全国から姿を消します。その縄文の技術を現代アイヌは引き継いでいるのです。
また、南の島々にはアイヌ語の名称が残っています。八丈島で真田織を織る道具を「カッタペ」と呼びます。これはアイヌ語で「織るヘラ」という意味になります。また西表島には「ピナイサーラ」という55メートルほどの滝があります。アイヌ語で「ピナイ」は谷川、「サーラ」はお年寄りの白く長い髭です。長いヒゲのような滝のある谷川なのでしょう。さらに西表島と与那国島には「ソナイ」という川がありますが、これも滝のある川という意味になります。
そうは言っても、北海道のアイヌが南の島々に行って名称を付けて歩くわけがありません。それは縄文時代から話していた夷言葉(えびすことば)の名称がそのまま残ったのでしょう。実際に比較言語学によって復元された弥生言葉を聞くと、アイヌ語を話せない私たちにはまるでアイヌ語のように聞こえます。おそらく縄文語まで遡ることができれば、それはほとんどアイヌ語になるのでしょう。
そして日本全国にアイヌ語地名が残っているのです。指宿「イープシーキ」=爆発のあった場所、四万十「シマント」=澄んだ水、富士「フチカムイ」=火の神、利根川「トネ」=もっとも長い、遠野「トーヌップ」=高原の湖、花巻「パナマキ」=川の中流にある平野、などなどです。極めつけは大和です。「ヤマト」を大和言葉では読み解けないのです。ウィキペディアでは語源を、山のふもと、山に囲まれた地域、山門、山跡、などなどですがどれも陳腐に感じます。「ヤマト国」とは夷言葉(今でいうアイヌ語)で理解すると「この尊き国」あるいは「栄える尊き国」となります。とても誇り高い国名なのです。
ところで縄文集落の埋葬方法として大人は集団墓地に葬るのですが、幼児や嬰児が死んだときには甕に入れて竪穴住居内の入り口の下に埋めるという習俗がありました。つまり出入りするたびに死んだ子供を踏んづけて歩くのです。何故そんな罰当たりなことをしていたのか、考古学者は誰一人として理解ができませんでした。ところがその特殊な習俗がアイヌに残っていて、その意味まで伝えているのです。
梅原猛さんがアイヌのお婆さんから聞いた話によると、アイヌは輪廻転生を信じていたようです。死んだご先祖様が遠い所から戻ってきて次の赤ちゃんとなって生れてくるのだと考えていたそうです。それなのに生まれてすぐ死んでしまったら、また遠い所へ帰って行かなければならない、それではせっかく戻ってきてくれたご先祖様に申し訳がない。だから人通りの一番多い入口の下に埋めて、次だれか女性が妊娠したらそのお腹に入って次の赤ちゃんとなって生れてきてください、そういう願いを込めて埋めるのだそうです。つまりアイヌは縄文の習俗を引き継いでいるだけではなく、その意味まで伝えているのです。
こうした事例をいくつも上げながら、アイヌは縄文人の直系の子孫なのだと説いてきました。すると令和に入ってすぐ、重要な研究成果が公表されることになりました。令和元年5月に、国立科学博物館、国立遺伝学研究所、東京大学などの7研究機関が合同で研究した結果によると、現代のアイヌは縄文人の遺伝子を約7割も保有しているというのです。
それを『古代DNA展』で明確に説明しています。国立科学博物館が開催する2025年3月15日(土)から6月15日(日)までの特別展であり、連日大勢の来館者で賑わっています。そこに『DNAが語るアイヌへの道すじ』という説明があり、全文をご紹介します。
【アイヌは12世紀には成立したとされているが、それ以前の集団形成の過程は、文献資料がないために明確ではない。しかし、DNA分析が進んだことで、彼らは北海道の縄文人をベースとしながら、その後の歴史の中で、本土日本や沿海州の集団からの影響も受けつつ誕生したことがわかってきた。これまでアイヌは日本列島の周辺で孤立して成立した集団という見方をされてきたが、それは誤りであることも明らかとなった。アイヌ集団には、現代の本土日本人に10~20%ほどしかない縄文人の遺伝子が70%近く伝わっており、最も縄文人に近い集団である。】
これまでのアイヌ成立過程の考え方が誤りであったことを認めたうえで、『アイヌは縄文人に最も近い集団である』と結論付けているのです。これが正しい認識であって、『縄文アイヌ研究会』ではアイヌを通して縄文を読み解くという試みを行なっています。いま縄文に学ぼうという機運が醸成されつつあると感じますが、それはつまりアイヌに学ぼうということになるのです。
⑥最近の遺伝子研究から見えてきたこと~日本人のご先祖様 令和7年5月24日
近年の遺伝子解析における技術革新には目を見張るものがあります。以前はミトコンドリアDNAを用いていましたが、これは母親の情報が娘を通して伝えられていくものです。…
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これには男性の情報は一切含まれませんし、女性といっても父方の祖母の情報も皆無なのです。十代遡ると延べ1024人のご先祖様がいますが、その内のたった一人の女性の情報しか残らないのです。たった十代で全体の0.1パーセント以下の情報になってしまうのです。
対して近年の解析に用いられているのは核DNAといい、それは両親からの情報を受け取ることができます。十代前のご先祖様の延べ1024人全ての情報が伝わっているのです。これによって圧倒的に正確な人類の系統樹が描けるようになりました。
しかも、遺伝子は4種類の塩基が連なって構成されますが、塩基数にも格段の違いがあります。ミトコンドリアのそれは約1万6500個であるのに対して、核は約32億個もあります。核DNAはヒトの完全な設計図なのです。遺伝情報は量においても質においても核DNAの方が断然に優れているのです。
近年の核DNAを用いた解析成果を、順を追ってご説明していきます。令和元年5月に国立科学博物館、国立遺伝学研究所、東京大学など7研究機関の合同研究によって、「アイヌは縄文人の遺伝子を約7割も受け継いでいる」と発表されました。アイヌは縄文人の子孫ではない、との推論が否定されることになったのです。
翌年の令和2年8月には、東京大学、東京大学大学院、金沢大学の3研究機関による『縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史』では、「アイヌは日本列島の最古の住人であり縄文人とアイヌは同じクラスター(枝)にいる」、「現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々は南ルートでやって来た」、「縄文人は東ユーラシア人の根に位置しており東ユーラシア人の創始集団である」ことなどが発表された。
アイヌが12、13世紀頃に北方から渡って来た異民族であるという主張は完全に成り立たなくなりました。12世紀の移民どころか日本列島の最古の住人なのです。また縄文人は東ユーラシア人の創始集団だという。これまで人は大陸から日本へ入ってきたと主張されてきましたが、人は、そして文化や技術も日本から大陸へと拡散していったのです。文化と技術に関しては別号で説明します。更には全ての東ユーラシア人は南方からやって来たのです。それまで学者達が主張していたアイヌ北方起源説に反して、アイヌの技術や文化、道具や楽器などが南方と同じだと指摘しながらアイヌ南方起源説を唱えてきましたが、それが正しかったことも証明されました。
更に翌令和3年9月には、金沢大学、富山大学などが合同で発表した『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』では、弥生時代には大陸南方からの遺伝子流入は無く、北東アジアの遺伝子の混入があり、古墳時代になってから大陸南方からの遺伝子混入が始まったとされました。これも改めて別号で解説しますが、約1万年前の江南地方で水田稲作を始めたのは日本民族なのです。紀元前10世紀に水田稲作の技術を北部九州に持ち込んだのは異民族ではなく、日本民族自身なのです。だから弥生時代にはその方面からの異民族遺伝子が入ってこないのです。朝鮮半島経由の移民が始まったのは、日本書紀が記すように古墳時代になってから本格化するのです。学者が言っていた、稲作技術をもった異民族が渡来して弥生人となったと言うのは、もう成り立たちません。学者よりも日本書紀が正しいと遺伝子が証明する時代になったのです。
そして昨年令和6年4月には理化学研究所などが、3256人分の日本人の全ゲノム情報を分析しました。この豊富なデータ数に基づく解析によって、金沢大学などが発表していた「日本民族の三重構造」は正しいと証明されました。弥生時代には朝鮮民族や漢民族などの渡来はなかったのです。これから弥生時代の解説が変更されていくことになるでしょう。
この論文では驚くべき事実が公表されました。私たち日本人にはネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が混入していると言うのです。それら旧人の遺伝子が現代日本人の疾病に影響を及ぼしていることまで分かってきました。本当に凄い時代になってきたのだと思います。それまで日本人の核DNAは他のアジア人とは明らかに異なっていることは分かっていました。その理由を説明できていなかったのですが、それが旧人の遺伝子混入によるものだと判明したのです。
これまで学者の多くは、日本には4万年以上前の中期旧石器時代(旧人の石器文化)は存在しないと主張してきました。既に60か所ほど中期旧石器時代の遺跡とされるものが発見されてはいたのですが、学者たちは認めていなかったのです。石同士がぶつかって偶然石器のように見えるだけだと言うのです。そういうデタラメな解説はもう成り立たなくなります。中期旧石器時代に日本列島にいたネアンデルタール人やデニソワ人と混血して日本民族の原型である『夷』の遺伝子が誕生したのです。
⑦後期旧石器時代の世界と日本 令和7年6月23日
日本列島にホモ・サピエンスが初上陸したのは今から約3万8千年前が確実とされますが、最近は4万年前と言われ始めています。約4万年も前からホモ・サピエンスによる日本列島の歴史は始まっているのです。…
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そして、その時点で磨製石器が使用されている。刃部磨製石斧といって、研ぎ澄ました石斧です。それと同じ物が約6万5千年前のオーストラリアから出土しているので、南方に居た頃から使い始めていたのでしょう。
日本では縄文時代以前を後期旧石器時代と呼ぶが、本当は約4万年前から実質的に新石器時代に入っているのです。これは驚異的です。ヨーロッパで新石器時代を迎えるのはどんなに遡っても1万年前よりは古くはならない。その他の地域はもっと遅れるのです。日本の新石器時代はヨーロッパよりも約3万年も先行しているのであり、この事実を1つ知るだけで日本の先進性がお分かり頂けるでしょう。それどころか、太古のホモ・サピエンスの技術のほぼ総てが日本列島で誕生しているのです。
ヨーロッパでは約5万から1万年前を後期旧石器時代と呼んでいる。旧石器時代とは打製石器だけを使っていた時代です。旧石器時代は前期、中期、後期と分かれていて、後期がホモ・サピエンスの時代となる。旧石器時代はおよそ260万年前から始まり、ほぼ同じ石器を使っていて、約260万年前に原人が使っていた石器と、ホモ・サピエンスの打製石器はほとんど同じだとされている。つまり260万年間で一度も技術革新が起きなかったのです。
ところが、日本では技術革新が次々と起きている。約4万年前から刃部磨製石斧が登場するが、ほぼ同時期から台形様石器と環状ブロック群も登場する。この環状ブロック群の内から刃部磨製石斧や台形様石器が大量に出てくるのです。この台形様石器は実験考古学の成果から小型狩猟具であるとされており、矢尻であると考えられる。
それから少し遅れてナイフ形石器と落とし穴が登場する。やがて3万年前になると環状ブロック群は姿を消す。環状ブロック群は定住遺跡とはされていないものの、少なくとも一定期間はそこで石器作りを行なっていたのでしょう。それと入れ替わるようにして、約3万年前に世界最古の定住遺跡が鹿児島県中種子町に登場するのです。この頃はテント状の家に住んで、遊動生活をしていたと考えられている。他のホモ・サピエンスがまだ岩陰や洞窟に身を潜めて生きていた3万年前に、日本民族のご先祖様たちはもう家に住んでいたのです。
それからおよそ5千年過ぎた約2万5千年前には北海道で細石器が誕生する。この技術は画期的な大発明です。細かく鋭い石刃をいくつも作って、それを木の棒に直線状の溝を作って埋め込むのです。そうしてノコギリ状の武器とするのですが、狩りの途中で刃が損耗したり欠落したりすると、その部分だけを新しい刃と交換します。細石刃は軽くて多くの交換用の刃を持ち運べるので、いつでも切れ味の良い武器として使用できる。こんなことを思いつくご先祖様は本当に天才だと思います。
それからまた5千年くらい経つと、田名向原遺跡(神奈川県相模原市)では世界最古の住居遺跡が登場する。これは柱があって屋根がある家です。テントであれば気ままに遊動してあるけますが、柱を立てた住居となるとそうはいきません。そこで長い年月を過ごすことになり、それが集落の形成へと繋がっていったのでしょう。
それから3千5百年ほど経つと青森県で縄文土器が登場する。大平山本Ⅰ遺跡(外ヶ浜町)から出土した土器で、約1万6500年前のものとされている。ただし縄文土器とは言っても、この土器には縄目の文様はない。まずは土器の製作技術を確立するのが先であって文様はその後で考案された、というのは合理的で現実的な過程です。ところが、海外の土器は初めから縄目の文様が入った完成形の縄文土器がいきなり出土する。それも日本から数千年も遅れてからです。
縄文時代草創期を特徴付ける石器として有茎尖頭器がある。有茎尖頭器の型式には地域特性があり、その中で「立川型」は北海道の型式であり、北海道の蘭越町にある立川遺跡を指標とする石器です。それがほぼ同時期の北米からも出土している。
そして約1万年前の粟津湖底遺跡(滋賀県大津市)からヒョウタンの種子が出土する。ヒョウタンはアフリカ原産ですが、アフリカから日本まで流れてくる海流はない。ということは1万年前の滋賀の縄文人は、アフリカまで行ってヒョウタンの種を持ち帰っているということです。そしてその頃、サハラ砂漠に縄文集落と同じ形態の集落(ナブタ・プラヤ遺跡)が誕生する。
このように、他のホモ・サピエンスが260万年前と変わらない技術しか持っていなかったときに、日本のご先祖様たちは次々と新しい技術革新を成し遂げていったのです。そしてアフリカまでの長距離の旅までしていた。刃部磨製石斧は南方で誕生しましたが、それ以外の技術は日本で誕生したものと同じものが世界中に広がっていった。世界の後期旧石器時代に技術革新を成し遂げていたのは日本民族しかいないのです。
⑧古代エジプト文明を築いたのは縄文人 令和7年8月1日
古代エジプト人の全ゲノムを初めて解読した研究結果が7月2日付けで学術誌「ネイチャー」に発表された。…
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https://www.nature.com/articles/s41586-025-09195-5
この論文の重要な箇所を抜粋してご紹介します。
【放射性炭素では紀元前2855年から2570年と年代測定された】
【彼はエジプト統一後数世紀を生き、初期王朝時代と古王国時代の懸け橋となった人物】
【遺体は岩を削った墓の中の陶器の甕に埋葬されていた】
【彼の遺伝的祖先の約20%は、メソポタミアとその周辺地域を含む肥沃な三日月地帯の東部を代表するゲノムに遡る】
【この遺伝的親和性は、新石器時代と青銅器時代にアナトリアとレバントに現れた祖先と似ている】
【この個体は、茶色の目、茶色の髪、および暗い肌から黒い肌までの範囲の色素沈着を持っていたと予想される】
これまで世界中の学者たちは古代エジプト文明を築いた人々がどこからやって来たのか分かっていなかった。突然現れた人々が古代エジプト文明を築いたのです。それは謎の民族とされていたのですが、その謎を解く手がかりが今回示されました。
今回の「彼」は古代エジプト文明が始まって数世紀経っていますので、現地民族と混血していて、80%は現地民族の遺伝子です。残りの20%はメソポタミアとの関連が示されており、アナトリア・レバントの地に現れた人々と似ていると指摘されています。「レバントに現れた人々」、つまりその人々も外来民族なのです。
これは筆者が『古代文明と縄文人』で予測したルートと完全に一致しています。
【やがてレバント地方から中石器時代(前1万2000~前5000年頃)がはじまっていく】(『古代文明と縄文人』P112)
【中石器時代のレバント地方において、人々は住居を定めて村落を形成するようになる。そしてこの時期にヨーロッパ初の竪穴住居がこの地に出現するのである。その後、レバント地方の東側にメソポタミア文明が興り、西側ではエジプト文明が興ることになる】(同P113)
【ヨーロッパ中石器時代の遺跡は極めて少なく、それもほぼ貝塚しかない。そして細石刃や骨角器、それからカヌーや弓矢を使い、竪穴住居にも住む人々なのだ。これらはすべて日本民族の特徴ばかりなのである】(同P114)
【(ドイツ南方のゲナスドルフ遺跡に居た人々は)もっと限定的に言えば北海道で寒冷地対策を完了させていた日本民族であろう。だからこそ、その地には生息しないアザラシを知っていたのだ。その人々は、このゲナスドルフを経由して紀元前1万2000年頃にレバント地方へ入っていったのだと考えられる。年代的にも綺麗に符合するので、この推測は正しいであろう】(同P123)
【広義の解釈ではエジプトもレバント地方に含まれる。前5000年頃に広義のレバントの地である古代エジプトで定住がはじまり、農耕が開始されたようだ】(同P140)
ネイチャーの発表はこれらの推論を裏付けるものとなった。その人々は紀元前1万3000年頃のゲナスドルフや前1万2000年頃のレバントに縄文人の遺跡や遺物を遺しながら、メソポタミアや古代エジプトの地へと入っていったのです。
さて、「彼」は「陶器の甕に埋葬されていた」のですが、それは日本の縄文時代から行なわれていた甕棺葬のことです。その「彼」は屈葬されていて、屈葬も縄文人の埋葬方法です。つまりゲナスドルフに突然現れた人々は、レバントを経由してエジプトに入るまで一貫して縄文人の技術・習俗を保持しているのです。
ここで「茶色の目、茶色の髪、および暗い肌から黒い肌」について解説しておきます。現地エジプト人の遺伝子が8割も入っているので黒い肌になっているのは理解できます。しかしエジプト人が茶色の目や茶色の髪(金髪)であるはずがありません。白い肌・青い目・金髪、これをヨーロッパ人の特徴だと思われるでしょうが、由来は違うのです。初期ヨーロッパ人は、肌色や髪色はアフリカ人とそう大きく変らず、北方の外来人の美しさに憧れていました。
それが歴史家タキトゥスの記した『ゲルマニア』や、詩人オウィディウスの詞などに記録されています。初期のヨーロッパ人は外来人の白い肌、青い目、金髪に憧れをもっていて、積極的に取り入れたことが書かれているのです。日本から大陸北方に渡って行った人々は紫外線の弱い地域で1万年以上も暮らしているうちに色素が薄くなっていったのでしょう。近年では金髪の発祥は、後にスキタイと呼ばれる人々の居た地域、しかもその東側にあると指摘されているのです。
そして、古代エジプト文明からもメソポタミア文明からも奇麗な十六菊花紋が出土していて、王家の紋章として伝わっています。それは日本の天皇家の紋章であり、古のスメラミコトの紋章だったのでしょう。これほどまで日本民族の確かな痕跡が遺されているのです。つまり、古代エジプト文明を築いた謎の民族とは、日本民族のご先祖様たちだったのです。

⑨サピエンス日本上陸~夷の誕生 令和7年10月21日
アフリカで誕生したホモ・サピエンスは約3万8千年前には日本列島に上陸している。それが初上陸は約4万年前になると指摘され始め、更に遡る可能性も出てきている。ただ、今回は確実なところは約3万8千年前としておく。…
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その人々は南方から丸木舟に乗って、外洋航海を成功させて南西九州の黒瀬海岸に上陸したのです。この航海を成功させるためには、世界有数の強い海流である黒潮を乗り越える必要があった。
南方の島々には古代日本と同じ技術や道具、楽器や神話が残っている。例えば日本民族の重要な道具である刃部磨製石斧は日本よりも1万年以上も古いものが出土している。日本列島上陸前にそこに居たことが確認できるのです。
それに対してシベリアや朝鮮半島にも日本と同じ出土物がありますが、日本列島より古いものは一つもありません。細石器も土器も日本よりも数千年も新しいのです。しかも、アムール川流域から出土する縄文土器は北海道で作製されたものと推定されている。現ロシアからは北海道産の黒曜石が出土し、朝鮮半島からは九州産の黒曜石が出土します。
これらを総合的に考えると、南方から丸木舟で北上してきたご先祖様たちが日本初上陸をはたし、その後にシベリアや朝鮮半島に進出していったのです。織物技術でも南方に縄文以前の技術が残されています。
それが近年、遺伝子からも確認されました。令和2年に東京大学、東京大学大学院、金沢大学が合同で発表した『縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史』では、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々は南ルートでやって来たと報告されている。「多くの人々」ではなく、「全ての人々」と言っているのです。つまり北方ルートでやってきた人は一人もいないと言っているのです。
そこまで言い切って大丈夫なのかと驚きましたが三機関で出した結論がこうなっているのです。更には遺伝子の系統樹では、縄文人は東ユーラシア人の根に位置するほど古く、東ユーラシア人の子孫ではなく祖先集団なのです。今まで学者たちが日本民族は北方から入ってきたと言っていましたが、それが完全に否定されました。
ここで日本民族は他のホモ・サピエンスとまったく別の道を歩み始めることになる。外洋航海に成功したその人々は、仮にカリマンタンを出発地とすると、およそ3千キロの長距離を手で漕いできたことになる。ご先祖様たちは、あまりにも強靭な人々だったのです。
日本書紀には、夷は一人で百人と戦うと記されている。戦国時代の宣教師の調査記録でも、アイヌは一人で百人と戦うと記されている。夷は物凄く力が強かったのです。
一つには黒潮が力の選別をしたといえます。丸木舟を手で漕いで物凄いスピードを出せた者たちだけが、日本列島までたどり着けた。力のない者たちの舟は黒潮に流されて、太平洋のど真ん中で死を迎えるしかありません。
しかし、同じホモ・サピエンス同士で百倍もの力の差ができるはずがありません。核DNAの解析によると明らかに日本民族だけ、その他の東アジア人とは異なる遺伝子を持っているのです。その理由が昨年(令和6年)、明らかになりました。
理化学研究所が三千人以上の日本人の核DNAを解析した結果によると、私たちにはネアンデルタール人の遺伝子が混入していたのです。デニソワ人の遺伝子も入っているという。おそらくその人々、旧人はゴリラのような怪力を持っていたのでしょう。
だからこそ古代日本人『夷』は百人力だった。その遺伝子を濃く残すアイヌも力が強いのだと理解できる。ネアンデルタール人と混血したことによって、私たち日本民族の遺伝子だけが、その他の東アジア人と異なっていたのです。
南方に居た頃のご先祖様たちは、力がとても強かったとしても、それだけでは遺伝子は大きく異ならない。強靭なホモ・サピエンスが日本までやって来ると、そこには別の人類「旧人」たちが居て、その人々と混血したのです。
日本書紀でも天孫ニニギノミコトが地上に降り立つと、既にそこに人がいて、現地人の女性であるイワナガヒメとコノハナノサクヤビメ姉妹と結婚しています。これは、天孫族はホモ・サピエンス、現地人はネアンデルタール人やデニソワ人だと理解することができる。イワナガヒメは醜かったと記されていますが、猿かゴリラのような顔をしていたのでしょう。記紀が事実を基にした記録であることが分かります。
こうして、日本列島に上陸した後になって、日本民族の直接のご先祖様である『夷』が誕生したのです。ゴリラのような旧人と混血したからこそ力が強かった。兵庫県高砂市にある生石(おうしこ)神社の浮石は、人工的に加工した巨石が、まるで水面から浮いているように置かれている。普通の人間にできる技ではない。ところが日本民族のご先祖様『夷』にはできていたのです。それほど特殊な人々だったのであり、百人力だったのです。

⑩世界各地から縄文土器が出土する 令和7年11月5日
バヌアツから一四点の縄文土器が出土したという話を聞いたことがあるでしょうか。フランスの考古学者が発掘したものでしたが、日本の考古学者はこれを否定した。パリの人類博物館が、慶応大学から寄贈された土器と、出土物を取り違えたのだという。…
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もしこれが本当であれば寄贈物を出土物と間違えるなど博物館のミスとしてはお粗末すぎる。もちろんフランスの学者は「ミスはなかった」と主張している。
日本の学者はこんな無礼な批判をしているが、何を根拠としているかと言うと、某懇親会で出た話なのだという。慶応大学関係者が寄贈したのだと言うが、その名前は出てこない。こんな飲み会での、しかも実名すら出てこない与太話を根拠にフランス学者の批判をしているのです。
日本の学者たちは、日本文化は世界で劣っていると信じ込んできたからこそ、こんな話がまかり通るのでしょう。縄文人がそんな遠い島まで行けるはずがない、と決め付けているのです。
ところが、令和になって核DNA解析技術が飛躍的に進歩すると、すべての東ユーラシア人は南方ルートでやって来たと公表された。日本民族も南方からやって来たのです。仮にカリマンタンを出発地とすると、日本列島に到達するまで約三千キロもの長距離を、丸木舟を手で漕いで辿り着いたことになる。私たちのご先祖様は、あまりにも強靭な人々だったのです。
日本初上陸は約四万年前となる。その頃は土器のような貯蔵容器を持っておらず、従って飢えや渇きに耐えながらの大冒険だった。その挑戦に成功したからこそ、ホモ・サピエンスが日本列島に上陸することができたのです。
やがて一万六千年前頃になると土器の製造に成功する。すると、縄文土器を丸木舟に積み込めば、水や食料を確保しながらの航海が可能となった。縄文土器を手にした強靭なその人々は、世界の何処までも行けたのです。
その後で世界中から土器が出土し始める。そしてその初めての土器には、縄目の文様があるのです。中には櫛目文や連点文などもありますが、どれも縄文土器の一器種です。ということは、世界各地から初めて出土する土器とは、縄文土器なのです。
ここで土器の発祥と伝播の経緯を見ておく。以前は、土器は一地域で誕生し、それが世界中に広がっていったと学者たちは考えていました。その発祥地は西アジアだと考えられていた。それが東方にも伝播していき、最後に登場したのが日本の縄文土器だとしていたのです。日本文化は遅れた文化だと信じ込んでいる学者たちには納得がいく経緯だったのです。
しかし、日本の縄文土器のほうが古いと分かった途端、学者たちはまったく異なる見解を示し始めた。土器製作は他地域に伝播したのではなく、各地で独自に誕生したのだと言い始めた。これは、日本の技術がルーツであるはずがないと言っているのです。
こうした意味不明な思考を重ねているからこそ、古代史解明が迷路に入りこんでいくことになる。日本の学者たちの罪は大きい。初めから言っていた通り、土器製作は一地域で誕生し、その技術が世界に拡散していったと考えればいいのです。その発祥地が西アジアではなく、日本列島だったということです。
さて、櫛目文土器という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。これは古代朝鮮文化を代表する土器とされる。実はこれと同じ土器がフィンランドからもシベリアからも中国からも出土していて、それらはまったく同じ物だと表現されている。
そして、櫛目文土器という名称は朝鮮独自のものではなく、フィンランドのカムケラミークに由来している。施工具は櫛なのであろうという意味から、ドイツ語でカムケラミークと命名されたのを、漢字に置き換えて櫛目文土器という名称となった。しかもこれらの地域ではほぼ同時期に突然出土し始めます。
櫛目文土器に限らず世界中の土器は突然、完成形の縄文土器が出土していて、どれも前段階の技術が確認されていない。こんな不自然なことが世界各地で一斉に起こることなど有り得ません。
それに対して、日本初出土の縄文土器には、縄目の文様が無い。まずは土器自体の作製に試行錯誤していたのでしょう。土器製作の技術が完成した後になって、その器面に文様を入れることを思いついたのだと考えられる。
櫛目文土器やカムケラミークと呼ばれる土器は、日本では北部九州で作製されていて、曽畑式土器と呼ばれている。それらは文様がそっくりというだけでなく、その独特な製法まで一緒です。粘土に滑石を混ぜるのですが、その量は大量であり、他の土器とは異なっているのです。そんな特殊な土器が、地球の裏側の南米からも出土している。
しかも曽畑式の基になった土器は轟式と呼ばれ、北部九州の土器の型式変遷は解明されている。その流れの中で曽畑式土器が誕生した。他地域では確認されない前段の技術が存在しているのです。
そして、曽畑式土器に限らず、日本で誕生した様々な器種の縄文土器が、世界中から出土しているのです。

⑪『縄文のムラと暮らし』 令和7年12月8日
今回は縄文時代のムラの様子を見てみましょう。皆さんも、おそらく聞いたことがあると思いますが、縄文人は竪穴住居に住んでいました。本州では床面を数十センチメートル掘り下げているのですが、北海道には二メートル以上も掘り下げた大型竪穴住居が存在しています。…
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おそらくこれは寒冷地対策だったのだと考えます。地面をある程度以上掘り下げると水も凍らないのです。大寒波に襲われたときに、皆が低い床面に集まって身を寄せ合えば、凍死を防げたでしょう。縄文時代が始まった頃の地球は最後の氷河期の真っただ中だったのです。そしてこの深く掘り下げた竪穴住居は樺太からシベリアまで広がっていきます。こうして氷河期の寒冷地を生き抜いていたのです。
また、各地の縄文集落では、死んだ幼児や嬰児を甕に入れて住居内に葬るという習俗がありました。とくに入口の下に埋めていました。そうすると、住居を出入りするたびに死んだ子供を踏んづけて通ることになります。なぜ、そんな罰当たりなことをしていたのか、考古学者は誰一人として理解できませんでした。
ところが、同じ習俗がアイヌにも残っていたのだと梅原猛さんが書き残してくれています。アイヌは輪廻転生を信じていて、死んだご先祖様が遠い所から帰ってきて生まれ変わるのだと信じていました。それなのに、生れてすぐ死んでしまったら、また遠い所へ戻って行かなければならない。それでは申し訳ないので、人通りの一番多い所に埋めて、すぐ次の赤ちゃんとなって生れ変ってください、そう願って埋めていたそうです。
こうして、アイヌは縄文の習俗を引き継いでいるばかりか、その意味までを伝えているのです。アイヌが伝え残していてくれなければ、その縄文の習俗は永遠に理解できなかったことでしょう。
この子供を甕棺に入れて住居内に葬るという習俗は、黄河文明の遺跡でも発見されています。大人は集落北方の集団墓地に葬るのですが、子供だけは甕棺に入れて住居内に葬っているのです。こんな特殊な埋葬習俗が他民族に見られるのは不自然です。つまり、黄河文明を築いたのは縄文人なのです。そしてそこから大量の縄文土器が出土しているのです。
また、縄文集落には数十から多い所では二百以上の貯蔵穴がありました。大きな穴をいくつも掘って、クリやクルミなどの堅果類を貯蔵していたのです。それらの堅果類は野生の木の実ではなく、人工林であったことが遺伝子から分かっています。人工的に植林して木の実を満載にしていたのです。ですから漁撈や狩猟が不調だった日でも、飢えることが無いのです。
こうして縄文人はいつでも食料を口にすることができる安定した生活を送っていました。
そして狩猟によってシカやタヌキ、イノシシ、ノウサギ、クマなどを捕獲していました。また漁撈によってカツオやマグロ、タイなどの魚や、全長五メートルもあるメカジキや、さらに大きいクジラまで獲っていたのです。さらには季節ごとの野生のワラビやゼンマイ、ニワトコなどの植物を採取していました。旬の食材を上手に利用していたのです。こうして縄文のムラでは、狩猟・漁撈・採取によって暮らしていた、とされてきました。
しかし、筆者は原始農耕もやっていたはずだと主張してきました。
「磨製石斧は焼畑農耕において、樹木伐採には欠かせない重要な道具である。またドングリなどの木々を植える時も、原始林の伐採をしてからの作業となる。 縄文時代には、こうした原始農耕が営まれていたようだ。このスタイルの農耕であれば石斧一本あれば事足りる。他の農耕具を必要としないのだ。縄文遺跡から農具が出土しないからと言って、縄文時代には農耕が無かったと判断するのは短絡的すぎるのである」(『古代文明と縄文人 復刻版』高木書房P214)
「縄文時代にも稲作があったのだが、それは小規模な焼畑農耕であり、しかも他の作物との混作であったようだ。このようなイネを混作する縄文農耕スタイルは、今でもカリマンタンに残されている」(同P215)
この主張の正当性が、今年五月に農研機構によって示されました。
((研究成果) アズキの栽培化が日本で始まったことをゲノム解析で明らかに)
この研究報告にとるとアズキの栽培は日本列島内で開始されたことが判明しました。野生の小さな黒いヤブツルアズキから、大きく赤い栽培アズキへと変化していったのです。その変化は約一万三千年前に始まり、一万年前には完全に栽培アズキとなっています。この変化が自然に起こることはなく、必ず人為的な作業を必要とします。つまり、縄文時代にも農耕を行なっていたことが科学的に立証されたのです。
こうして、縄文時代の本当の暮らしとは、狩猟・漁撈・採取、そして農耕によって支えられていました。自給自足が完全に成り立つ、永久的に安定した社会だったのです。だからこそ縄文時代は一万年以上もの間に、戦争が一回も発生しない平和な社会だったのです。

ゲノム解析結果から推察される、ヤブツルアズキおよび栽培アズキの伝播経路・成立過程(農研機構)
◆目次
①『大和朝廷vs邪馬台国』宣伝 ![]()
②神武東征・船出の地を訪ねて 縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一 ![]()
③天の磐船 ![]()
④日本民族の三重構造(裏付け) ![]()
①『大和朝廷vs邪馬台国』の宣伝令和6年1月21日
昨年(令和5年)12月6日にNHKBSで放映されたフロンティア「日本人とは何者なのか」をご覧になられた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。…
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衝撃的な内容でした。
日本の第一線の考古学者が何人も登場していましたが、
ようやく「日本民族北方進入論」が間違っていたことを認め始めたようです。
ここを一番強調して書いてきましたが、これから認められ始めることでしょう。
日本民族のご先祖様たちは、日本上陸前は南方にいたのです。
その具体的な経路を本書では解説しています。

今回の著作は10万年以上前の南アフリカから始まります。
そこから日本列島に上陸するまでの道のりを示しています。
その人々は魚を食べる人々なので、ユーラシア大陸の南側に沿って、
つまり海沿いに東へ東へと歩いてきたのです。
やがて東の先端で陸路が途絶えたためしばらくはそこにいました。
それは現在のカリマンタンからインドネシアあたりです。(当時その島々は陸続きとなっていた。)
ここまでの経路上に縄文遺跡からの出土物と同じ貝製ビーズなどが残されているのです。
そこで約5万年前に刃部磨製石斧という研ぎ澄まされた石斧を手にしました。
その鋭利な石斧で大木を切り倒し、その大木で丸木舟を造るようになったのです。
インドネシアの遺跡からは外洋を高速で遊泳する魚の骨が大量に出土しています。
舟の外面をツルツルに磨き上げることによって高速が出せるようになったのです。
岩のように重い重量があり、空を飛ぶような速い舟は「天の磐船」と名付けられた。
その「天の磐船」に乗ってイザナギの船団は日本初上陸を成し遂げたのです。
それは今から3万8000年前のことになる。
ここから日本列島における歴史が始まるのです。
はじめは列島内で均一な道具を使い同じ暮らしをしていたのですが、
2万8000年前を過ぎると道具に地域差がうまれ、異なる集団となっていく。
弥生時代に入ると列島内にいくつものクニが生まれることになるが、
その中心となっていたのが大和朝廷と邪馬台(ヤマト)国です。
そして弥生時代後半に大和朝廷が、数代の天皇にわたって国内の再統一を行なっていく。
邪馬台国側の勢力は徐々にそぎ落とされ、最終決戦は364年になるのです。
なぜそれが364年だと分かるのかちゃんと理由があるのです。
魏志倭人伝だけ見ていても分からないですが日本書紀と新羅本紀をあわせ読むと、
はっきり分かるのです。それを「大和朝廷vs邪馬台国」を読んで確かめてください。
また、従来から魏志倭人伝の「水行十日、陸行一月」の読み方が問題となってきた。
実はこの記述を実際の距離に置き換える試みには全く意味がないのです。
魏の郡使は非常に過大に誇張された日数を倭人から一方的に伝えられただけなのです。
記録を残した魏の郡使も実際の里数は得られなかったと自分ではっきりと書いています。
それは何故かという理由も含めてそのカラクリを本書で確かめてください。
さらには魏志倭人伝には侏儒国(こびとの国)のことが記載されているのですが、
その位置の説明はフローレス島の位置を示しています。
驚くことに侏儒国の人の身長の説明は、実際のフローレス原人の身長と一致しているのです。
ご先祖様は南方にいた頃に大人の身長が1mしかないフローレス原人に会っていたのです。
そのあまりにも小さい人たちを見て衝撃を受けたのでしょう。
その衝撃が邪馬台国の侏儒国とアイヌのコロポックル伝説となっているのです。
②神武東征・船出の地を訪ねて 縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一令和6年6月5日
去る5月30日(金)に㈱データマックスの児玉会長のご案内により、神武天皇が東征に向けて船出された美々津の里を訪ねてきた。児玉会長は博多から鹿児島までお越しくださり、…
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そこから宮崎県日向市に向かうという大遠征を敢行され、心から感謝に堪えない。
道中では西都原(さいとばる)古墳群のご案内も頂いた。かなり多くの古墳群があるばかりではなく、展示館には旧石器時代から古墳時代までの連続した展示がされており、非常に見応えがあった。展示方法にも手が込んでおり大変参考になったが、そこに言及すると話が長くなり過ぎるため美々津の話に入ることとする。
今から2683年前、高千穂におられた神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、のちの神武天皇は奈良の橿原に向けて旅立たれた。それまでは南部九州が日本の中心であったのだ。先にその解説を少しだけする。
日本民族は列島に上陸する前、カリマンタンなどの南方の島々にいた。そこから丸木舟に乗って日本列島まで到達したのである。それを成し遂げるためには、途中の海域に流れる世界有数の強い海流を突破しなければならない。この困難な外洋航海は丸木舟でなければ達成できない。筏や草舟では海流を横切ることはできず、太平洋のど真ん中に押し流されて死を待つしかない。その丸木舟は岩のように重く、空を飛ぶがごとくの高速が出せる。そうした理由からその丸木舟は『天磐船(あまのいわふね)』と呼ばれた。日本神話は物語として事実を伝えているのである。
その日本初上陸の地は、薩摩半島の西南端にある黒瀬海岸(南さつま市笠沙町)であり、そこは神渡海岸と呼ばれている。この地に神が渡って来たと言い伝えているのだ。それは後期旧石器時代である3万8000年前の出来事である。しばらくはテント状の簡易なイエに住んで、日本列島を遊動してあるく生活をしていたと考えられている。そのテントの址が見つかっているのだが、南部九州は早くから定住がはじまっていたとされる。なぜなら4kgもある石皿が発見されており、そんな重い皿を持ち運んでいたとは考えられないからである。
つまり南部九州が拠点であったのだ。それは日本民族の故地である南方の島々に一番近いからであろう。丸木舟に乗って日本列島にまでやって来られるのは、強い海流を突破するスピードを出せる力持ちだけである。核DNAの分析によると、日本民族の最初の集団はおよそ1000人程度だったとされており、特別力の強い1000人だけが海流を突破することができたのだ。
黒瀬海岸の石碑(下に何方かお酒をお供えされている)
と言うことは親兄弟や親族たちの多くは南方の島々に残るしかない。それで日本列島の西南端を拠点としていたのであろう。「魏志倭人伝」でも、九州の人々が片道を一年がかりで南方の島々と行き来していたことが記されている。余談になるが、その南方の島の一つに侏儒国というのが記載されている。侏儒とは小さな人のことであり、その人々は大人になっても身長が3~4尺(約1m)しかないという説明がされている。
そして南方の島々の中にはフローレス島という島があり、そこに住んでいたフローレス原人は実際に大人の身長が1mほどしかないのである。フローレス原人はホモ・サピエンスとの接触により絶滅したとされる。かなり最近まで生存していたようで、縄文時代がはじまる直前まで生きていたようだ。そうなると日本民族が南方にいたころにフローレス原人と出会っていたことになり、それが九州の侏儒国伝承となり、アイヌのコロポックル伝説となっているのだろう。日本神話は真実を物語として伝えているのだ。
しかし、神武天皇の時代になるとほとんどの親族は日本列島の中にいて、そのため日本列島の中心に拠点を移そうと考えられたのであろう。ここから拠点探しがはじまった。多くの神々と相談したところ、塩椎神(しおつちのかみ)の提案により大和の地を目指すことになった。そこで船出の準備をするために美々津の港に降りてこられたのである。
美々津の立磐神社には神武天皇の御腰掛岩(おこしかけいわ)があり、ここに座られて軍議を開かれたのだと伝わる。ここで軍船を準備し、舟師(ふなし)や戦人(いくさびと)をそろえて東征の準備をされたことから、この地は『日本海軍発祥之地』とされている。準備が整い、船出は旧暦8月2日とすることになった。
ところが遠見の山で凧をあげて風向きを調べ、港からは小舟を出して潮の流れを調べたところ、予定の前日となる8月1日に風も潮も絶好の好機となった。そこで急遽1日の午前2時になって、舟を出すことを決められた。
そこから村の人々を起こして回る。「今から舟をだすぞーみんな起きよ、起きよ、美々津の者どもみんな起きよ起きよ!」と言って家々を回り人々を起こした。驚いて飛び起きた村人たちは困惑した。2日の船出に合わせて団子を差し上げる準備をしていたのだが、団子を作っている時間はない。そこで準備をしていた米粉と小豆を混ぜ合わせて蒸し、臼でついて団子らしいものにして差し上げた。それを神武天皇はたいへん喜ばれたのだという。
美々津ではこの風変わりな「お船出だんご」を「つきいれ」と呼び、今でも実在する独特な団子となっている。ところが、美々津の人が全員作れるわけではないのだと言う。船出が突然開始されることになったため、それに気づかずに寝ていた人がいたそうだ。それでその家の人びとは「つきいれ」を作ることを未だに禁じられているのだ。
更にこの逸話にまつわる行事が今に伝わっている。旧暦の8月1日には「おきよ祭り」が今でも行なわれており、明け方に短冊飾りを付けた笹の枝を持った子供たちが町の家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いて人々を起こして回るそうだ。
また、神武天皇が御腰掛岩の近くに立って下知をされていると、着ておられる服にほころびがあった。そこで急いでいたために、立ったまま童女に繕わせた。それで美々津のことを別名「立縫(たちぬい)の里」と言う。
美々津の古歌
美々津とはたが言ひそめし旅衣 君きて縫ふや立縫の里
御腰掛岩
こうして神武天皇は、お舟出を祝う旗と里人たちに見送られて、七ツ礁(ばえ)と一つ上(かみ)の間(お船出の瀬戸)をお船出したのだと伝わる。
この岩を通過して船出をされたと伝わる
このように美々津には具体的な逸話が数多く残されていて、その伝承を美々津の人びとは大切に守っているのだ。嘘や作り話が2000年以上も残るはずがない。日本民族はこのような事実を神話として伝え継いできたのであり、これからも大切に守っていかなければならないと改めて心に刻んだ旅となった。
最後に改めて児玉会長には心から感謝を申し上げる。
③天の磐船 令和6年7月7日
日本神話では日本民族の祖先は天の磐船に乗ってやって来たと伝えられている。
アイヌ神話でも舟に乗って天から降りてきたということになっている。そして太古のアイヌは風に…
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乗って世界中どこにでも飛んで行けたと伝えている。
もう何度も説明していますが、アイヌ語の「アイヌ」とは「人」という意味でしかありません。
つまり太古のアイヌとは神代日本人のことを指しているのです。
その頃は日本人などという言葉はなく、その人々は「夷」を自称し、夷を誇りに思っていたのです。
しかし、誇りある民族「夷」であっても、さすがに空など飛べるはずがありません。
その天の舟とは、天を駆けるほどのスピードが出せる舟という意味なのです。
今でも大急ぎで行くことを「飛んでいく」と表現しますし、その表現は昔から変わらないのです。
また、天の磐船には「磐」という言葉が使われていますが、これにも重要な意味があります。
それは岩のように重い舟ということであり、大きな重量があったことも大切な要素なのです。
要は、南の島から舟に乗って日本列島に到達するためには重さと速さが必要だったのです。
なぜなら、南の島々と日本列島の間には世界有数の強い海流が流れているからです。
軽い舟や遅い舟では海流に流されてしまい太平洋のど真ん中で死を待つしかない。
重たい舟であれば海流に抵抗でき、速い舟であればそれを突破できるのです。
それを国立科学博物館の人類研究部人類史研究グループ長(当時)であった海部陽介先生が実証実験で証明されました。
はじめは竹いかだや草たば舟で挑戦されたのですが、海流に押し流されてしまいました。
しかし、丸木舟で挑戦すると見事に海流を横切って200km以上の渡海に成功されたのです。
太古の昔には伴走船も地図もGPSも科学的サポートも何もありません。
水平線の下になっている次の島まで、その方角は渡り鳥の飛んでいく先を正確にたどる必要がありますし、それは夜間でも針路を見失っては命取りになってしまう。
したがって、日中は太陽、夜間は月や星々の動きを正確に把握して針路を求めたのです。
そして夜間に睡眠をとってしまえばその間に流されてしまいますし、交代で休めるほどの乗員もいない。せいぜい5、6人しか乗れないのです。
海部先生の舟はサポート船が伴走していますので安心して眠ることができましたが、大昔ではそうはいかない。ということは昼夜を問わずひたすら漕ぎ続けるしかありません。
最近の核DNAの研究によると、いちばん初めのご先祖様たちの集団は1000人程度だったといいます。それは言い換えると、日本列島までの渡海に成功したのは1000人しかいなかったということになります。非力な人間を乗せた丸木舟は太平洋の藻屑となってしまったのです。おそらく多くの犠牲をともなったうえでの、日本初上陸だったのでしょう。
その力の強い人々は、丸木舟に乗って南の島から北上してきたのですから、初上陸地点は日本列島南端となるのです。
(当時は九州・四国・本州は陸続きとなっていて古本州島と呼ばれる。)
日本神話ではそこは薩摩の黒瀬海岸ということになっていますが、合理的に理解できます。
「天の磐船」も「黒瀬海岸」も、日本神話は史実を物語として伝えているのです。
つまり、
力の強い人々が重くて速い「天の磐船」に乗ってやって来たのです。
④日本民族の三重構造(裏付け) 令和6年8月13日
以前に「日本民族の三重構造」という説明をしました。
HPの中にある「コラム」欄の⑦がその項目になります。…
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その時点ではサンプル数の少なさが課題でありました。
ところがその課題を克服するデータがついに発表となりましたので、それをご紹介いたします。
それは今年(令和6年)4月の理化学研究所の発表です。
全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴
このサブタイトルが物凄いのですが、
『-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-』
つまり、私たちの体にはネアンデルタール人やデニソワ人の血が流れているのです。
その古代型人類の遺伝子が現代の私たちの疾病に及ぼす影響まで解明され始めています。
これから更に具体的な証明がなされていくことでしょう。
では、今回の重要な指摘ポイントを見ていきます。
『今回、共同研究グループは、バイオバンク・ジャパン(BBJ)が提供した3,256人分の日本人の全ゲノム情報を分析しました。』
これまで日本民族のゲノム解析は遅れており、一個体あるいは数個体のデータで論じられてきました。それが今回は3,256人分ものデータ解析に基づく研究成果なのです。データ数が少ないという弱点を完全に克服しています。
それでは理化学研究所の指摘を見てみましょう。
『現生人類(ホモ・サピエンス)の最も近縁とされる古代型人類ネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだ遺伝子領域を特定しました。』
私たち日本民族の体には古代型人類の血が流れているのです。
その遺伝子領域の特定まで終わっているというのです。
そして今回一番重要であり、必ずご理解して頂きたい指摘が最後のほうに記されています。
まず、
『最近日本列島の遺跡から出土した人骨のゲノムの研究による「三重構造」モデル、すなわち、縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡ってきた集団、そして東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡ってきた集団の三集団の混血により日本人が形成されたという説が提唱されました。』
これまで日本民族は「二重構造」で説明されてきました。縄文人が住んでいた日本列島に、朝鮮半島から渡来人がやって来て弥生時代を迎えたと学者たちは解説してきたのです。縄文人と弥生人は別民族だと言うのです。それは絶対に間違っていると私は主張してきました。それを学術的に指摘してくれたのが「三重構造」説でした。
ただし、
『先行研究で用いられた古人骨全ゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていました。』
サンプル数の少なさが弱点となっていたのです。
それを克服したのが今回の研究成果です。
『本研究は、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいて、この三重構造モデルの裏付けになり、日本の人口構造をより適切に説明する可能性があると考えられます。』
今回の解析結果は「三重構造」の裏付けとなったのです。
それでも『適切に説明する可能性がある』という抑制的な解説となっています。
『理化学研究所などが取得した約27万人のゲノムデータを保有する。』
とされており、実は理化学研究所は27万人分ものデータを保有しているのです。
これからより大量のデータ数に基づく、より完璧な解析がなされていくことになるのでしょう。
解説 【日本民族の三重構造】
① <祖先集団>
・3万8000年前=南方から舟で北上してきたホモ・サピエンスが古代型人類と混血
⇒【夷】 の誕生!
(注:これを縄文人ゲノムと呼びますが、この時点では後期旧石器日本人です。)
② <第二集団>
・弥生時代=【北東アジア起源の遺伝子】 が混入されます。
(注:これはスキタイとか匈奴や諸夷と呼ばれる人々ですが改めて解説します。)
③ <第三集団>
・古墳時代以降=【東アジア起源の遺伝子】 の混入が開始されます。
(注:これが朝鮮半島から渡ってきた漢民族や朝鮮系民族です。)
これらの詳しい解説は追々していきますが、
ここでは重要な一点だけ押さえておいてください。
それは、
弥生時代に朝鮮半島からの異民族流入などなかった!!
朝鮮半島からの渡来人は古墳時代になってから入ってくるのです。
つまり、
弥生人は稲作渡来人ではない!!
ということです。
◆目次
①アイヌは縄文人の子孫なのか ![]()
②アイヌが縄文人の子孫だとする画期的な研究成果 ![]()
③吉野ケ里の石棺~あやつこ ![]()
④あやつこ考 ![]()
⑤長距離外洋航海の証拠 ![]()
⑥アマゾンから縄文土器が出土する ![]()
⑦日本民族の三重構造 ![]()
⑧「今まで信じていた常識って何だったんだろう」 篠田謙一 ![]()
①アイヌは縄文人の子孫なのか令和5年10月3日
「アイヌは縄文人の子孫ではない」
「アイヌは北方民族である」…
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「アイヌは日本民族ではない」
こうした主張が根強くありますが、実際はどうなのでしょうか?
答えは「アイヌは縄文人の子孫」です。
それを導くいくつもの研究結果が示されております。
その中で重要な研究結果の一つが下記です。
是非ご覧になってくだい。
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
ここで指摘されているポイントを書き出します。
『最近のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している』
『IK002(注:縄文人骨)の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の”根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった』
『本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスター(注:枝)に含まれた』
『アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高い』
『縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統である』
ただし、この論文は一個体の縄文人データにすぎません。
論文の最後に
『 ただ、本研究は IK002 という1個体の詳細なゲノム解析であり、したがって、これらの結果 は IK002 という個体について言えることで、すべての地域・時代の縄文人について言えるわけ ではない。たとえば、本研究では「北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は検出されなか った」と結論づけているが、これは IK002 についての結論であり、別の個体では北ルートのゲ ノムが検出されるかもしれない。さらに、大陸から日本列島への移住ルートについては、今後、 列島内のさまざまな地域の縄文人骨を分析することによって解明されてくるもので、いまは分 からないことは注意すべき点である。』
と記されています。
一気にすべてが明らかになることはないと思いますが、
こうした一つの事実が「蟻の一穴」になると自分は信じています。
今後データの積み上げによってより正しい真実が浮かび上がってくると思っています。
②アイヌが縄文人の子孫だとする画期的な研究成果令和5年10月6日
縄文アイヌを執筆し始めた頃は、アイヌを北方民族だとする意見が大勢を占めていました。
明治以降にアイヌと呼ばれるようになった人々は江戸時代までは蝦夷人と呼ばれていました。…
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江戸時代に蝦夷人の習俗や道具を描いた図書が残されていますが、
そこに描き出された人々や道具はアイヌそのものです。
蝦夷は日本書紀の中でもその習俗等が記録されています。
ところが、「アイヌは13世紀に北方から進入して来た他民族である」という主張が根強くあったのです。
(その主張をする人は今でもたくさんいます。)
しかし、アイヌが縄文人の子孫であることを示す科学的研究結果が令和元年(平成31年)に発表されました。
このあと次々とそれを補強する研究結果が示されていますが、その第一弾となる画期的な新聞報道が下記です。
これは是非おさえておいてください。
縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析
重要なポイントは『縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が(中略)北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割』という点です。
現代アイヌは1万年以上も前の縄文人の遺伝子を約7割も受け継いでいるのです。
その論文は
『Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan』
ですので、このタイトルで検索すると英文の論文が出てきますのでご確認ください。
この論文の101ページ右段の3行目から9行目が当該箇所になります。
この論文は国立科学博物館、国立遺伝学研究所、東京大学、金沢大学など7研究機関合同の研究成果です。
これがその後の正しい流れを導く、重要な転換点となりました。
追加説明です。
Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan
これの検索結果ですが2番目に出てくるのが「Anthropological Science」そのものの表示で、その101ページと書きました。
ところが1番目の項でダウンロードすると頁数が変わっており、19ページとなっております。
内容はもちろんどちらも同じですのでその項目の『PDFをダウンロードする』をクリックしてご覧になってください。
③吉野ケ里の石棺~あやつこ令和5年10月10日
令和5年春、吉野ケ里で首長層の墓とみられる石棺が発見されたとの報道があった。
それを開けるというので何が出てくるのかワクワクしながら見ていた。…
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ところが中からは人骨も遺物も何も出てこなかった。
これは吉野ケ里の最後の首長の石棺だと考えているが、そうであるならば、実は何も出てこないほうが正しいのだ。
その理由は第4作となる『大和朝廷vs邪馬台国』のあとがきに書いた。
さて、今回はその石棺に刻みこまれていた「×」印について説明したい。
テレビなどの報道を見ているかぎりではそれを「バッテン」と呼んでいた。
誰もそれの正確な解説をされていないことを残念に思っていたのだが、これこそ日本古来の魔除けの信仰である『あやつこ』なのである。
広辞苑では、
『あやっ‐こ【綾子】(×印のことで、魔除けのしるし)生まれた子を初めて宮参りさせるとき、額ひたいに鍋墨か紅かで魔除けとして「×」「犬」「大」などのしるしを書く風習。やすこ。』
と説明されている。
『あやつこ』は古代史を読み解くためには必ず覚えておいていただきたい。
ここから太古の重要な事実が浮かび上がってくるのである。
柳田國男先生が考察された貴重な記録が残されているのでそれを下記にご紹介する。
方言覚書 – NDL Digital Collections
国会国立図書館デジタルコレクションのデータ記録であり、
無料ダウンロードできるので是非とも印刷してお手元に保管されることをお勧めする。
これの51ページから74ページが『阿也都古考』である。
「阿也都古」で「あやつこ」と読む。
ただし、ダウンロードしたデータを印刷する場合にはページ数が異なっており、
「〇 範囲を指定」を選択してボックスに「34‐46」と入れると当該箇所が印刷できる。
「あやつこ」の「×」印は古代の日本民族にとって重要なシンボルであり、
このあと世界に広がっていくのだが、それは次回説明することとする。
「あやつこ」の正式な起源、実際の発祥は勿論確認はできないものの、
正確な始まりは別としても古代日本の大切な信仰であることは間違いない。
今回は、まずは柳田國男先生の考察をじっくり堪能してみてください。
(文章が難しいかも知れませんが重要なポイントは次回説明します。)
④あやつこ考令和5年10月12日
方言覚書 – NDL Digital Collections
今回は上記「方言覚書」のなかの『阿也都古考』の記述から見ていく。…
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この53頁1行目から
【十年あまりも前から、家の子供がよく使うので耳に留まっていたのは、斜めにした十文字、すなわち×、こういう形の符号をバッテンということであった。東京の小学生は皆そう言っているが、おそらく教師が別に深い考えもなしに言い出したことであろう】
この『阿也都古考』は昭和16年に書かれたものである。
つまり「バッテン」という呼称は、昭和初期になって突然言いだされた造語なのだ。
大正以前の日本人はそんな呼び方をしていなかったのである。
では、それ以前は何と呼んでいたのであろうか?
55頁5行目下のほうから
【東北だけは確かに在来の日本語があって、これをヤスコと言っていたのである。青森岩手の二県の人ならば、誰でもまだ覚えているし、秋田にもその語を知っていた人があり、会津でも使うという話である】
「×」の本来の呼び方は「ヤスコ」らしい。
そしてその呼び方も、その意義も昭和期に失われていった。
しかし、古代日本では「×」は重要な意味をもっており、海外へと伝わっていったのである。
大野晋著「弥生文明と南インド」(岩波書店)63頁下から5行目からには
【また、加耶からはAD4-5世紀初頭と編年される縄文打捺円底短頸壺などに「×」「二」などの記号がある。(中略)中国の例は極めて僅少であり、これが日本の弥生時代の記号文を誕生させたということはできない。(中略)このように見る限り、日本の弥生時代の記号文は中国、朝鮮から伝来したものではない】
と書かれており、日本で誕生した「×」などの記号文が中国や朝鮮に伝わったのだ。
「×」が古代日本人には大切な記号であったとしても現代日本人にはピンとこないであろう。
ところが、皆さんは知らず知らずのうちに毎日目にしているし、使っているのだ。
それは漢字である。漢字の中にある「×」はイレズミを表しているのである。
「文身」で「イレズミ」を表すが、正しくは「文(イレズミ)をいれた身」という意味なのだ。
それは夷(今で言う縄文人)のイレズミをした身体を表現しているのである。
「×」を含む漢字は「文」「凶」や、「学」「顔」「彦」の本字などがある。
これらの漢字の「×」はイレズミ(つまりは縄文人)から発生しているのだ。
中国には「彦」のつく神様も人物もいない。これは日本民族にだけ必要な漢字である。
自分たちに必要のない漢字(基は甲骨文字)などを創るはずなどない。
漢字の基となる甲骨文字を創ったのは大陸に渡った夷(縄文人)なのだ。
その人々の顔にはイレズミがあり、だからこそ「顔」の本字は「×」を含むのである。
そもそも甲骨文字には「漢」という字自体が存在していない。
元来は、漢民族の文字ではないのである。
「文字」という単語自体が、イレズミ(文)をした人の字ということを意味している。
例として「凶」を見る。白川静著「常用字解 第二版」(平凡社)134頁の凶の解説には
【文身(一時的に描いた入れ墨)を描いた胸の形。凵かんは胸の形。×は朱色などで描いた文身の文様の形。(中略)凶に人の全身を横から見た形の勹ほうを加えて匈きょう(むね)となり、身体の部分であるという意味の月にくづき(肉)を加えて胸(むね)となる。匈は胸のもとの形である】
と記載されている。
そして匈奴はイレズミを入れていたのである。
司馬遷著, 小竹文夫・小竹武夫訳「史記 列傳篇三」(弘文堂)171頁7行目から
【匈奴の法律では、漢の使節は、持参した符節(注:漢の証明証)を捨て、顔に入墨した者でないと、単于(注:ぜんう、匈奴の王)の天幕に入ることが許されなかった】
さて、『阿也都古考』にもどる。その70頁3行目から
【外国にも同じようなシンボルはあった。誰でも知っているのはキリスト教の十字、及びこれと必ず関係があろうと言われるスワスチカすなわち仏教の卍字なども、今ではどういうわけであの通り大切にされているのか、諸説紛々という状態であるが、この方のアヤツコがもし詳しくわかったら、事によると遠い上代に遡って意外な新しい解説がつくかもしれない。しかもあちらの学者たちがもう久しくかかって調べていることだけを、翻訳して受け売りしてみたところで始まらない。そんな事をする時間があるならば、まさに消えていこうとしている我々の同胞の、自分たち固有の十文字に対して、大昔以来抱いていた感覚を片端なりとも採集しておく方がよいのである。】
これは遠回しにではあるが、キリスト教の十字架や仏教の卍の起源が、
もしかすると日本の「アヤツコ」にあるかも知れないと言っているのだろう。
そして、上記でも同じ事を指摘されているが、67頁最後の3行でも、
【日本の人は過去の自分の生活の中からも、いくらでもその法則を知ることが出来たのに、やたらに他国の人の言うことを聞くために、かえって話が面倒になってくるのである。受け売りをする前にまず自国のアヤツコを考えてみなければならぬ。】
と指摘される。
つまり、古代の謎を解くカギは日本国内にあるのである。
⑤長距離外洋航海の証拠令和5年10月22日
後期旧石器時代の日本民族は長距離の外洋航海が本当にできていたのか?
これの証明が出来なければこの後の話はすべて空理空論になってしまいます。…
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それを証明する指摘をあげてみます。
・藤尾慎一郎・松木武彦編 『ここが変わる! 日本の考古学』 吉川弘文館
20頁「古琉球島の旧石器人」
【この地域の島々では石灰岩質の地層に守られていることもあって、2万年前をさかのぼる人骨がいくつか発見されている。その中で最も古いのが、那覇市山下町にある山下町第1洞穴から出土した6歳くらいの子供の大腿骨と脛骨片である。周辺から出土した炭化物の炭素14年代測定の結果、約3万7000年前という結果が出ていて、形態的にホモ・サピエンスと判断されている】
・海部陽介著 『サピエンス日本上陸』 講談社 54頁11行目から
【石垣島の空港敷地内にある白保竿根田原洞穴からは、旧石器人骨の化石が大量に発掘された。(中略)、2016年までの調査で、2万7500~1万年前の年代を示す人骨は19体】
・小野林太郎著 『海の人類史―東南アジア・オセアニア海域の考古学―』 雄山閣
12頁14行目から
【海面が今より約130メートルも低かった約2万年前でも、石垣島と台湾や中国大陸沿岸の距離は100キロ以上におよぶ。琉球列島ではこのほかにも、宮古島や沖縄本島で3~2万年代の化石人骨が多数発見されており、彼らがどちらの方角から移動してきたかは確定できていないが、いずれも海を越えて各島に到達したことは間違いない】
後期旧石器時代の日本民族が外洋航海を行なっていたことは事実なのです。
3万8000年前以降になると日本各地から刃部磨製石斧が突然出土し始めます。
すでに日本国内で1000本以上が見つかっていますがまだまだ見つかるでしょう。
そして、それより古い刃部磨製石斧がオーストラリア北部から出土しているのです。
刃部磨製石斧とは刃の部分をきれいに磨き上げた石斧です。
順当に考え合わせると、遥か南の島にいた日本民族のご先祖さまが刃部磨製石斧を発明し、
その石斧で丸木舟を造って長距離外洋航海を成し遂げて日本列島に到達したのでしょう。
ところで、ブラジルのセラ・ダ・カピバラ国立公園というところに世界一の数を誇る
岩絵が残されていて、それがユネスコの世界遺産になっていることをご存知でしょうか?
ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の岩絵 Rock paintings of …
・民族藝術学会編 『民族藝術 VOL.16 2000』 82頁5行目から
民族藝術学会では次のような報告がされています。
【ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の発掘時に発見された彩画のある岩石断片からは、鮮新世の最晩期である29,000±650BP(GIF6651)という年代数値が示す時期に、人々が絵画制作をおこなっていたことを示している】
約3万年前の南北アメリカ大陸は陸路が完全に閉ざされており、海から上陸するしかなかった。
カナダ一帯は巨大な氷河に覆われていて、シベリアからの陸路は開かれていませんでした。
シベリアとアラスカの陸橋が通れるようになるのは1万2000年前頃からです。
そうすると、約3万年前に海を渡ってブラジルに岩絵を残せる民族とは、
少なくとも現時点では、日本民族しか可能性がないでしょう。
⑥アマゾンから縄文土器が出土する令和5年10月25日
アマゾンから縄文土器が出土しているということをご存知でしょうか。
日本の学者は一切口にしませんが実際に現地の教科書ではそう記述しているそうです。…
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その話を、元アマゾナス日系商工会議所会頭の山岸照明氏が、
一般社団法人日本ブラジル中央協会のコラムに書いていております。
アマゾン河Ⅱ | 日本ブラジル中央協会 WEB SITE
このコラムのアマゾンの人々 という項の3行目から次のように記されております。
【私もマナウスに着いた当時、川沿いの市場等の周りを裸で駆け回る子供たちのお尻には鮮やかな蒙古斑点が見られ“成る程”と思っておりました。】
【又、マナウスの学校の教科書には日本の縄文時代の土器が、アマゾンで発見されているとの記事を見たことがありますので、(後略)】
現地の人はアマゾンで出土する土器を、「日本の縄文時代の土器」と認識しているようです。
そして現地の子供たちのお尻には我々日本人と同じく、蒙古斑が鮮やかに見られるそうです。
さて、約1万年前の日本国内からは、アフリカが原産であるヒョウタンが出土しています。
国立歴史民俗博物館の「くらしの植物苑だより No.53」をご覧ください。
くらしの植物苑だより No.53
【ユウガオ(ヒョウタン)が日本列島に登場するのはとても古く、およそ1万年前の縄文時代早期の遺跡から種子や果実の皮が出土しています。福井県三方町の「鳥浜貝塚」と、滋賀県の琵琶湖底にある「粟津湖底遺跡」の2ヵ所で見つかっています。】
【縄文時代前期のおよそ7千年前の「曽畑貝塚」からは、未使用の完全な果実もみつかっています。】
少なくとも9900年前のアメリカ大陸からもヒョウタンが出土していますが、
こちらは海流に流されてアフリカ大陸からたどり着いたのだとされています。
しかし、アフリカ大陸から日本列島まで流れてくる海流はありません。
ということは、1万年前の福井や滋賀の縄文人はアフリカまで行って帰ってきたことになります。
ちなみに、滋賀県の鳥浜貝塚からはこれも日本最古のウルシ材が出土しています。
鳥浜貝塚から出土したウルシ材の年代
ウルシは日本原産ではありません。(ただし日本原産の可能性を指摘している人もいるようです)
鳥浜貝塚の縄文人は海外に出て行って、日本国内には無い珍品を持ち帰ってきたのでしょう。
また、7千年前のヒョウタンを持ち帰ってきた曽畑貝塚の人々は曽畑式土器を完成させます。
その曽畑式土器は完成したとほぼ同時に、世界各地から出土するようになります。
(曽畑式土器は別項目で説明します)
こうして縄文人が世界中と交流していた姿が浮かび上がってきます。
⑦日本民族の三重構造令和5年10月30日
これまで「日本民族の二重構造」ということが指摘されてきました。
縄文時代末期に朝鮮半島から渡来人(つまりは朝鮮人)が日本列島に渡ってきて、…
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日本に水田稲作を伝え、その人々が弥生人となっていったと考えられてきました。
しかし、それは完全に間違っています。
今後説明していきますが、世界で初めて水田稲作をはじめたのは、
江南地方に渡った日本の夷(今で言う縄文人)なのです。
その水田稲作の技術を完成させた縄文人が日本列島に帰ってきただけの話です。
以前にお示ししたとおり、縄文人は東ユーラシア人の祖先集団なのです。
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
本当は、弥生時代初期には朝鮮人の渡来などなかったのです。
それを核DNA解析の結果から具体的に示しているのが下記論文概要(プレスリリース)です。
パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造
これの3頁4行目後半から次の指摘がされています。
【弥生時代には、北東アジアを祖先集団とする人々の流入が見られ、縄文人に由来する祖先に加え第2の祖先成分が弥生人には受け継がれている】
【しかし、古墳時代には、これら2つの祖先に加え東アジアに起源をもつ第3の成分が存在】
【パレオゲノミクスによって日本人ゲノムの「三重構造」を初めて実証しました。】
これらから縄文人は2度の大きな混血を受けていることが指摘されているのです。
第1回目は弥生時代になりますが、それは朝鮮半島からのものではありません。
その第1回目は北東アジアからの混血なのであり、それはスキタイ人と呼ばれる人々です。
ペルシア人はその人々をサカイ人と呼んでいました。
なぜ、スキタイやサカイと呼ばれたのかも含めていずれ著書に書きますのでお待ちください。
ヘロドトスはスキタイを大きく4集団に分け、一番東側に王族スキタイがいると記しています。
王族スキタイ(夷、今で言う縄文人)は他のスキタイを隷属民としていました。
【ゲロス河以遠は、前にもふれた王領のスキティアで、このスキュティア人は最も勇敢で数も多く、他のスキティア人を自分の隷属民と見做している。】
・松平千秋訳 『ヘロドトス 歴史 中』 岩波書店 18頁3行目から
ヘロドトスは王族スキタイを「本来のスキタイ人」として他のスキタイ人と分けています。
その「本来のスキタイ人」は一番東側、つまり本国日本に一番に近い場所にいたのです。
これは縄文人こそが東ユーラシア人の祖先集団であるという結論と合致する表現です。
西側のスキタイは金髪の白人であり、遺された遺体の皮膚には鮮やかなイレズミがあります。
(これらはまとめてシリーズ最後の著作に記しますのでしばらくお待ちください。)
続いて第2回目の混血は古墳時代にはじまります。
それは「東アジアに起源をもつ」人々であると記されていますが、これが朝鮮人を指します。
『日本書紀』でも、古墳時代の大和朝廷が朝鮮半島からの難民を受け入れたと記されています。
半島難民に対して朝廷は食料と土地を与え、生活ができるようにしてやったと書いているのです。
古墳時代の日本は大和朝廷が日本全国に善政を敷いて安定した国造りが進んでいました。
それに対して朝鮮半島は混乱を極め、人々は日々の暮らしに困窮していたのです。
その人々が生きる活路を求めて大挙して日本列島へ渡ってきたのです。(今も同じか?)
その人々に朝廷は生きる保証を与え、最後には百済郡、高麗郡、新羅郡の設置までしました。
百済郡は早くに消滅しましたが、高麗郡と新羅郡は明治29年まで存続したのです。
高麗郡は現在の埼玉県日高市・鶴ヶ島市全域とその周辺、新羅郡は新座しらぎ郡と表記が変わり、
現在の東京都練馬区や埼玉県新座市など広域に広がっていました。
けっして小集落などではなく、現在の一つの都市全域よりもはるかに大きいのです。
日本書紀が記すように、古墳時代になって初めて朝鮮人との大規模な混血が開始されたのです。
それを『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』が科学的に証明しているのです。
結果として、近代の推論よりも日本書紀の記述の方が正しかったのです。
近年、こうしたことが科学的な解析によって証明され始めているのです。
⑧「今まで信じていた常識って何だったんだろう」 篠田謙一令和5年11月2日
重鎮・篠田謙一博士が明治以来100年間の常識に間違いがあったことを認め始めました。
【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる …
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0:45
【私達は逆に何でこんな常識を持っていたんだろうという風に振り返るようになるはずなんですよ。それが実は明治から後の100年間くらいで作った常識でものを見てただけなんだろうと思うんですけどね。】
これは、篠田謙一博士が明治以降100年間の常識に誤りがあったことを認める重大発言です。
ようやくここまできたかと感慨深く視聴しました。
7:18
【2010年というのが一つの画期になっていて、そこでペーボが古代ゲノムを読んで、それ以降、2010年からもう12年間たってるわけなんですけども、莫大な数の古代人ゲノムが読まれているんですよね。】
参考: 古代人ゲノム解読による 古人類学への先駆的貢献
2010年から既に膨大な数の古代人ゲノムが解読されていると述べられています。
こうした解析結果からこれまでの常識を覆す結論が次々と導き出されているのです。
7:44
【いったい自分たちは今まで信じてきた常識って何だったんだろうって思うことがあるんですけどね。】
これは画期的な発言となる。ついに重鎮までもが常識に疑いを持ち始めたようです。
・澤田健一著 『古代文明と縄文人』 柏艪舎 204頁4行目から
【あるいは学会の重鎮に気を遣って声を上げられないのかもしれない。もしそうであるならば科学的データは何の意味ももたなくなる。誠実に科学と向き合っていただきたいものだ。くり返すが、もうそろそろ日本民族の北方進入論という非科学的な幻想を捨て去るべきである。】
考古学者たちはこれまで「日本民族はシベリアを経由して北方から入ってきたのは絶対に間違いない」と何の根拠も示さずに主張し続けてきました。それを「学会の結論」とまで言ってきました。
しかし、最近の核DNAの解析から日本民族はすべて南方系であることが証明されたのです。
ここに至ってシベリア横断ルートの主張は取り下げざるを得なくなったようです。
ところが、またもや怪しげな図を描き始めました。
9:20
シベリア横断ルートは消し去られましたが、今度は南方からの人々は遺伝的に分化していて、
① 沖縄ルート ② 朝鮮半島ルート ③ 樺太ルート
の3ルートに分かれて進入してきたのであり、北の人と南の人は別の人だと言うのです。
11:03
【縄文人もけっこう地域差があるってことが分かってきてて、まあ当然その日本列島でいきなり全部が混血して均一な縄文人ができるってことは今までは考えていたんですけど、ま、そんなことは実はあり得なくてですね、南は南の人たち、北は北の人たちだったんだろうというのが一般的な考え方です。】
え??? 何を言ってるのだろう??? どこの世界で一般的なの???
上の図の青線は分化して3ルートの点線は違う遺伝子を持っていると言っているようです。
どうしても学者は「北の人たちと南の人たちは絶対に別民族」でなければ困るようです。
そして、まだ日本民族を「二重構造」で説明をしていて縄文人と弥生人は別民族だとしています。
日本民族のご先祖様は単一民族であり、縄文人と弥生人は同じ人々であることはこれからも繰り返しご説明してまいります。
間違いに気がつき始めたものの、学会の迷走はまだまだ続きそうです……。
ただ、
絶対だと言い続けてきたシベリア横断ルートを消去したことは偉大な前進です。
