できれば上から順にお読みください。
◆目次
①アイヌは縄文人の子孫なのか
②アイヌが縄文人の子孫だとする画期的な研究成果
③吉野ケ里の石棺~あやつこ
④あやつこ考
⑤長距離外洋航海の証拠
⑥アマゾンから縄文土器が出土する
⑦日本民族の三重構造
⑧「今まで信じていた常識って何だったんだろう」 篠田謙一
⑨『大和朝廷vs邪馬台国』宣伝
⑩神武東征・船出の地を訪ねて 縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一
⑪天の磐船
⑫日本民族の三重構造(裏付け)
①アイヌは縄文人の子孫なのか令和5年10月3日
「アイヌは縄文人の子孫ではない」
「アイヌは北方民族である」…
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「アイヌは日本民族ではない」
こうした主張が根強くありますが、実際はどうなのでしょうか?
答えは「アイヌは縄文人の子孫」です。
それを導くいくつもの研究結果が示されております。
その中で重要な研究結果の一つが下記です。
是非ご覧になってくだい。
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
ここで指摘されているポイントを書き出します。
『最近のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している』
『IK002(注:縄文人骨)の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の”根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった』
『本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスター(注:枝)に含まれた』
『アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高い』
『縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統である』
ただし、この論文は一個体の縄文人データにすぎません。
論文の最後に
『 ただ、本研究は IK002 という1個体の詳細なゲノム解析であり、したがって、これらの結果 は IK002 という個体について言えることで、すべての地域・時代の縄文人について言えるわけ ではない。たとえば、本研究では「北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は検出されなか った」と結論づけているが、これは IK002 についての結論であり、別の個体では北ルートのゲ ノムが検出されるかもしれない。さらに、大陸から日本列島への移住ルートについては、今後、 列島内のさまざまな地域の縄文人骨を分析することによって解明されてくるもので、いまは分 からないことは注意すべき点である。』
と記されています。
一気にすべてが明らかになることはないと思いますが、
こうした一つの事実が「蟻の一穴」になると自分は信じています。
今後データの積み上げによってより正しい真実が浮かび上がってくると思っています。
②アイヌが縄文人の子孫だとする画期的な研究成果令和5年10月6日
縄文アイヌを執筆し始めた頃は、アイヌを北方民族だとする意見が大勢を占めていました。
明治以降にアイヌと呼ばれるようになった人々は江戸時代までは蝦夷人と呼ばれていました。…
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江戸時代に蝦夷人の習俗や道具を描いた図書が残されていますが、
そこに描き出された人々や道具はアイヌそのものです。
蝦夷は日本書紀の中でもその習俗等が記録されています。
ところが、「アイヌは13世紀に北方から進入して来た他民族である」という主張が根強くあったのです。
(その主張をする人は今でもたくさんいます。)
しかし、アイヌが縄文人の子孫であることを示す科学的研究結果が令和元年(平成31年)に発表されました。
このあと次々とそれを補強する研究結果が示されていますが、その第一弾となる画期的な新聞報道が下記です。
これは是非おさえておいてください。
縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析
重要なポイントは『縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が(中略)北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割』という点です。
現代アイヌは1万年以上も前の縄文人の遺伝子を約7割も受け継いでいるのです。
その論文は
『Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan』
ですので、このタイトルで検索すると英文の論文が出てきますのでご確認ください。
この論文の101ページ右段の3行目から9行目が当該箇所になります。
この論文は国立科学博物館、国立遺伝学研究所、東京大学、金沢大学など7研究機関合同の研究成果です。
これがその後の正しい流れを導く、重要な転換点となりました。
追加説明です。
Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan
これの検索結果ですが2番目に出てくるのが「Anthropological Science」そのものの表示で、その101ページと書きました。
ところが1番目の項でダウンロードすると頁数が変わっており、19ページとなっております。
内容はもちろんどちらも同じですのでその項目の『PDFをダウンロードする』をクリックしてご覧になってください。
③吉野ケ里の石棺~あやつこ令和5年10月10日
令和5年春、吉野ケ里で首長層の墓とみられる石棺が発見されたとの報道があった。
それを開けるというので何が出てくるのかワクワクしながら見ていた。…
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ところが中からは人骨も遺物も何も出てこなかった。
これは吉野ケ里の最後の首長の石棺だと考えているが、そうであるならば、実は何も出てこないほうが正しいのだ。
その理由は第4作となる『大和朝廷vs邪馬台国』のあとがきに書いた。
さて、今回はその石棺に刻みこまれていた「×」印について説明したい。
テレビなどの報道を見ているかぎりではそれを「バッテン」と呼んでいた。
誰もそれの正確な解説をされていないことを残念に思っていたのだが、これこそ日本古来の魔除けの信仰である『あやつこ』なのである。
広辞苑では、
『あやっ‐こ【綾子】(×印のことで、魔除けのしるし)生まれた子を初めて宮参りさせるとき、額ひたいに鍋墨か紅かで魔除けとして「×」「犬」「大」などのしるしを書く風習。やすこ。』
と説明されている。
『あやつこ』は古代史を読み解くためには必ず覚えておいていただきたい。
ここから太古の重要な事実が浮かび上がってくるのである。
柳田國男先生が考察された貴重な記録が残されているのでそれを下記にご紹介する。
方言覚書 – NDL Digital Collections
国会国立図書館デジタルコレクションのデータ記録であり、
無料ダウンロードできるので是非とも印刷してお手元に保管されることをお勧めする。
これの51ページから74ページが『阿也都古考』である。
「阿也都古」で「あやつこ」と読む。
ただし、ダウンロードしたデータを印刷する場合にはページ数が異なっており、
「〇 範囲を指定」を選択してボックスに「34‐46」と入れると当該箇所が印刷できる。
「あやつこ」の「×」印は古代の日本民族にとって重要なシンボルであり、
このあと世界に広がっていくのだが、それは次回説明することとする。
「あやつこ」の正式な起源、実際の発祥は勿論確認はできないものの、
正確な始まりは別としても古代日本の大切な信仰であることは間違いない。
今回は、まずは柳田國男先生の考察をじっくり堪能してみてください。
(文章が難しいかも知れませんが重要なポイントは次回説明します。)
④あやつこ考令和5年10月12日
方言覚書 – NDL Digital Collections
今回は上記「方言覚書」のなかの『阿也都古考』の記述から見ていく。…
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この53頁1行目から
【十年あまりも前から、家の子供がよく使うので耳に留まっていたのは、斜めにした十文字、すなわち×、こういう形の符号をバッテンということであった。東京の小学生は皆そう言っているが、おそらく教師が別に深い考えもなしに言い出したことであろう】
この『阿也都古考』は昭和16年に書かれたものである。
つまり「バッテン」という呼称は、昭和初期になって突然言いだされた造語なのだ。
大正以前の日本人はそんな呼び方をしていなかったのである。
では、それ以前は何と呼んでいたのであろうか?
55頁5行目下のほうから
【東北だけは確かに在来の日本語があって、これをヤスコと言っていたのである。青森岩手の二県の人ならば、誰でもまだ覚えているし、秋田にもその語を知っていた人があり、会津でも使うという話である】
「×」の本来の呼び方は「ヤスコ」らしい。
そしてその呼び方も、その意義も昭和期に失われていった。
しかし、古代日本では「×」は重要な意味をもっており、海外へと伝わっていったのである。
大野晋著「弥生文明と南インド」(岩波書店)63頁下から5行目からには
【また、加耶からはAD4-5世紀初頭と編年される縄文打捺円底短頸壺などに「×」「二」などの記号がある。(中略)中国の例は極めて僅少であり、これが日本の弥生時代の記号文を誕生させたということはできない。(中略)このように見る限り、日本の弥生時代の記号文は中国、朝鮮から伝来したものではない】
と書かれており、日本で誕生した「×」などの記号文が中国や朝鮮に伝わったのだ。
「×」が古代日本人には大切な記号であったとしても現代日本人にはピンとこないであろう。
ところが、皆さんは知らず知らずのうちに毎日目にしているし、使っているのだ。
それは漢字である。漢字の中にある「×」はイレズミを表しているのである。
「文身」で「イレズミ」を表すが、正しくは「文(イレズミ)をいれた身」という意味なのだ。
それは夷(今で言う縄文人)のイレズミをした身体を表現しているのである。
「×」を含む漢字は「文」「凶」や、「学」「顔」「彦」の本字などがある。
これらの漢字の「×」はイレズミ(つまりは縄文人)から発生しているのだ。
中国には「彦」のつく神様も人物もいない。これは日本民族にだけ必要な漢字である。
自分たちに必要のない漢字(基は甲骨文字)などを創るはずなどない。
漢字の基となる甲骨文字を創ったのは大陸に渡った夷(縄文人)なのだ。
その人々の顔にはイレズミがあり、だからこそ「顔」の本字は「×」を含むのである。
そもそも甲骨文字には「漢」という字自体が存在していない。
元来は、漢民族の文字ではないのである。
「文字」という単語自体が、イレズミ(文)をした人の字ということを意味している。
例として「凶」を見る。白川静著「常用字解 第二版」(平凡社)134頁の凶の解説には
【文身(一時的に描いた入れ墨)を描いた胸の形。凵かんは胸の形。×は朱色などで描いた文身の文様の形。(中略)凶に人の全身を横から見た形の勹ほうを加えて匈きょう(むね)となり、身体の部分であるという意味の月にくづき(肉)を加えて胸(むね)となる。匈は胸のもとの形である】
と記載されている。
そして匈奴はイレズミを入れていたのである。
司馬遷著, 小竹文夫・小竹武夫訳「史記 列傳篇三」(弘文堂)171頁7行目から
【匈奴の法律では、漢の使節は、持参した符節(注:漢の証明証)を捨て、顔に入墨した者でないと、単于(注:ぜんう、匈奴の王)の天幕に入ることが許されなかった】
さて、『阿也都古考』にもどる。その70頁3行目から
【外国にも同じようなシンボルはあった。誰でも知っているのはキリスト教の十字、及びこれと必ず関係があろうと言われるスワスチカすなわち仏教の卍字なども、今ではどういうわけであの通り大切にされているのか、諸説紛々という状態であるが、この方のアヤツコがもし詳しくわかったら、事によると遠い上代に遡って意外な新しい解説がつくかもしれない。しかもあちらの学者たちがもう久しくかかって調べていることだけを、翻訳して受け売りしてみたところで始まらない。そんな事をする時間があるならば、まさに消えていこうとしている我々の同胞の、自分たち固有の十文字に対して、大昔以来抱いていた感覚を片端なりとも採集しておく方がよいのである。】
これは遠回しにではあるが、キリスト教の十字架や仏教の卍の起源が、
もしかすると日本の「アヤツコ」にあるかも知れないと言っているのだろう。
そして、上記でも同じ事を指摘されているが、67頁最後の3行でも、
【日本の人は過去の自分の生活の中からも、いくらでもその法則を知ることが出来たのに、やたらに他国の人の言うことを聞くために、かえって話が面倒になってくるのである。受け売りをする前にまず自国のアヤツコを考えてみなければならぬ。】
と指摘される。
つまり、古代の謎を解くカギは日本国内にあるのである。
⑤長距離外洋航海の証拠令和5年10月22日
後期旧石器時代の日本民族は長距離の外洋航海が本当にできていたのか?
これの証明が出来なければこの後の話はすべて空理空論になってしまいます。…
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それを証明する指摘をあげてみます。
・藤尾慎一郎・松木武彦編 『ここが変わる! 日本の考古学』 吉川弘文館
20頁「古琉球島の旧石器人」
【この地域の島々では石灰岩質の地層に守られていることもあって、2万年前をさかのぼる人骨がいくつか発見されている。その中で最も古いのが、那覇市山下町にある山下町第1洞穴から出土した6歳くらいの子供の大腿骨と脛骨片である。周辺から出土した炭化物の炭素14年代測定の結果、約3万7000年前という結果が出ていて、形態的にホモ・サピエンスと判断されている】
・海部陽介著 『サピエンス日本上陸』 講談社 54頁11行目から
【石垣島の空港敷地内にある白保竿根田原洞穴からは、旧石器人骨の化石が大量に発掘された。(中略)、2016年までの調査で、2万7500~1万年前の年代を示す人骨は19体】
・小野林太郎著 『海の人類史―東南アジア・オセアニア海域の考古学―』 雄山閣
12頁14行目から
【海面が今より約130メートルも低かった約2万年前でも、石垣島と台湾や中国大陸沿岸の距離は100キロ以上におよぶ。琉球列島ではこのほかにも、宮古島や沖縄本島で3~2万年代の化石人骨が多数発見されており、彼らがどちらの方角から移動してきたかは確定できていないが、いずれも海を越えて各島に到達したことは間違いない】
後期旧石器時代の日本民族が外洋航海を行なっていたことは事実なのです。
3万8000年前以降になると日本各地から刃部磨製石斧が突然出土し始めます。
すでに日本国内で1000本以上が見つかっていますがまだまだ見つかるでしょう。
そして、それより古い刃部磨製石斧がオーストラリア北部から出土しているのです。
刃部磨製石斧とは刃の部分をきれいに磨き上げた石斧です。
順当に考え合わせると、遥か南の島にいた日本民族のご先祖さまが刃部磨製石斧を発明し、
その石斧で丸木舟を造って長距離外洋航海を成し遂げて日本列島に到達したのでしょう。
ところで、ブラジルのセラ・ダ・カピバラ国立公園というところに世界一の数を誇る
岩絵が残されていて、それがユネスコの世界遺産になっていることをご存知でしょうか?
ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の岩絵 Rock paintings of …
・民族藝術学会編 『民族藝術 VOL.16 2000』 82頁5行目から
民族藝術学会では次のような報告がされています。
【ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の発掘時に発見された彩画のある岩石断片からは、鮮新世の最晩期である29,000±650BP(GIF6651)という年代数値が示す時期に、人々が絵画制作をおこなっていたことを示している】
約3万年前の南北アメリカ大陸は陸路が完全に閉ざされており、海から上陸するしかなかった。
カナダ一帯は巨大な氷河に覆われていて、シベリアからの陸路は開かれていませんでした。
シベリアとアラスカの陸橋が通れるようになるのは1万2000年前頃からです。
そうすると、約3万年前に海を渡ってブラジルに岩絵を残せる民族とは、
少なくとも現時点では、日本民族しか可能性がないでしょう。
⑥アマゾンから縄文土器が出土する令和5年10月25日
アマゾンから縄文土器が出土しているということをご存知でしょうか。
日本の学者は一切口にしませんが実際に現地の教科書ではそう記述しているそうです。…
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その話を、元アマゾナス日系商工会議所会頭の山岸照明氏が、
一般社団法人日本ブラジル中央協会のコラムに書いていております。
アマゾン河Ⅱ | 日本ブラジル中央協会 WEB SITE
このコラムのアマゾンの人々 という項の3行目から次のように記されております。
【私もマナウスに着いた当時、川沿いの市場等の周りを裸で駆け回る子供たちのお尻には鮮やかな蒙古斑点が見られ“成る程”と思っておりました。】
【又、マナウスの学校の教科書には日本の縄文時代の土器が、アマゾンで発見されているとの記事を見たことがありますので、(後略)】
現地の人はアマゾンで出土する土器を、「日本の縄文時代の土器」と認識しているようです。
そして現地の子供たちのお尻には我々日本人と同じく、蒙古斑が鮮やかに見られるそうです。
さて、約1万年前の日本国内からは、アフリカが原産であるヒョウタンが出土しています。
国立歴史民俗博物館の「くらしの植物苑だより No.53」をご覧ください。
くらしの植物苑だより No.53
【ユウガオ(ヒョウタン)が日本列島に登場するのはとても古く、およそ1万年前の縄文時代早期の遺跡から種子や果実の皮が出土しています。福井県三方町の「鳥浜貝塚」と、滋賀県の琵琶湖底にある「粟津湖底遺跡」の2ヵ所で見つかっています。】
【縄文時代前期のおよそ7千年前の「曽畑貝塚」からは、未使用の完全な果実もみつかっています。】
少なくとも9900年前のアメリカ大陸からもヒョウタンが出土していますが、
こちらは海流に流されてアフリカ大陸からたどり着いたのだとされています。
しかし、アフリカ大陸から日本列島まで流れてくる海流はありません。
ということは、1万年前の福井や滋賀の縄文人はアフリカまで行って帰ってきたことになります。
ちなみに、滋賀県の鳥浜貝塚からはこれも日本最古のウルシ材が出土しています。
鳥浜貝塚から出土したウルシ材の年代
ウルシは日本原産ではありません。(ただし日本原産の可能性を指摘している人もいるようです)
鳥浜貝塚の縄文人は海外に出て行って、日本国内には無い珍品を持ち帰ってきたのでしょう。
また、7千年前のヒョウタンを持ち帰ってきた曽畑貝塚の人々は曽畑式土器を完成させます。
その曽畑式土器は完成したとほぼ同時に、世界各地から出土するようになります。
(曽畑式土器は別項目で説明します)
こうして縄文人が世界中と交流していた姿が浮かび上がってきます。
⑦日本民族の三重構造令和5年10月30日
これまで「日本民族の二重構造」ということが指摘されてきました。
縄文時代末期に朝鮮半島から渡来人(つまりは朝鮮人)が日本列島に渡ってきて、…
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日本に水田稲作を伝え、その人々が弥生人となっていったと考えられてきました。
しかし、それは完全に間違っています。
今後説明していきますが、世界で初めて水田稲作をはじめたのは、
江南地方に渡った日本の夷(今で言う縄文人)なのです。
その水田稲作の技術を完成させた縄文人が日本列島に帰ってきただけの話です。
以前にお示ししたとおり、縄文人は東ユーラシア人の祖先集団なのです。
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
本当は、弥生時代初期には朝鮮人の渡来などなかったのです。
それを核DNA解析の結果から具体的に示しているのが下記論文概要(プレスリリース)です。
パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造
これの3頁4行目後半から次の指摘がされています。
【弥生時代には、北東アジアを祖先集団とする人々の流入が見られ、縄文人に由来する祖先に加え第2の祖先成分が弥生人には受け継がれている】
【しかし、古墳時代には、これら2つの祖先に加え東アジアに起源をもつ第3の成分が存在】
【パレオゲノミクスによって日本人ゲノムの「三重構造」を初めて実証しました。】
これらから縄文人は2度の大きな混血を受けていることが指摘されているのです。
第1回目は弥生時代になりますが、それは朝鮮半島からのものではありません。
その第1回目は北東アジアからの混血なのであり、それはスキタイ人と呼ばれる人々です。
ペルシア人はその人々をサカイ人と呼んでいました。
なぜ、スキタイやサカイと呼ばれたのかも含めていずれ著書に書きますのでお待ちください。
ヘロドトスはスキタイを大きく4集団に分け、一番東側に王族スキタイがいると記しています。
王族スキタイ(夷、今で言う縄文人)は他のスキタイを隷属民としていました。
【ゲロス河以遠は、前にもふれた王領のスキティアで、このスキュティア人は最も勇敢で数も多く、他のスキティア人を自分の隷属民と見做している。】
・松平千秋訳 『ヘロドトス 歴史 中』 岩波書店 18頁3行目から
ヘロドトスは王族スキタイを「本来のスキタイ人」として他のスキタイ人と分けています。
その「本来のスキタイ人」は一番東側、つまり本国日本に一番に近い場所にいたのです。
これは縄文人こそが東ユーラシア人の祖先集団であるという結論と合致する表現です。
西側のスキタイは金髪の白人であり、遺された遺体の皮膚には鮮やかなイレズミがあります。
(これらはまとめてシリーズ最後の著作に記しますのでしばらくお待ちください。)
続いて第2回目の混血は古墳時代にはじまります。
それは「東アジアに起源をもつ」人々であると記されていますが、これが朝鮮人を指します。
『日本書紀』でも、古墳時代の大和朝廷が朝鮮半島からの難民を受け入れたと記されています。
半島難民に対して朝廷は食料と土地を与え、生活ができるようにしてやったと書いているのです。
古墳時代の日本は大和朝廷が日本全国に善政を敷いて安定した国造りが進んでいました。
それに対して朝鮮半島は混乱を極め、人々は日々の暮らしに困窮していたのです。
その人々が生きる活路を求めて大挙して日本列島へ渡ってきたのです。(今も同じか?)
その人々に朝廷は生きる保証を与え、最後には百済郡、高麗郡、新羅郡の設置までしました。
百済郡は早くに消滅しましたが、高麗郡と新羅郡は明治29年まで存続したのです。
高麗郡は現在の埼玉県日高市・鶴ヶ島市全域とその周辺、新羅郡は新座しらぎ郡と表記が変わり、
現在の東京都練馬区や埼玉県新座市など広域に広がっていました。
けっして小集落などではなく、現在の一つの都市全域よりもはるかに大きいのです。
日本書紀が記すように、古墳時代になって初めて朝鮮人との大規模な混血が開始されたのです。
それを『パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造』が科学的に証明しているのです。
結果として、近代の推論よりも日本書紀の記述の方が正しかったのです。
近年、こうしたことが科学的な解析によって証明され始めているのです。
⑧「今まで信じていた常識って何だったんだろう」 篠田謙一令和5年11月2日
重鎮・篠田謙一博士が明治以来100年間の常識に間違いがあったことを認め始めました。
【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる …
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0:45
【私達は逆に何でこんな常識を持っていたんだろうという風に振り返るようになるはずなんですよ。それが実は明治から後の100年間くらいで作った常識でものを見てただけなんだろうと思うんですけどね。】
これは、篠田謙一博士が明治以降100年間の常識に誤りがあったことを認める重大発言です。
ようやくここまできたかと感慨深く視聴しました。
7:18
【2010年というのが一つの画期になっていて、そこでペーボが古代ゲノムを読んで、それ以降、2010年からもう12年間たってるわけなんですけども、莫大な数の古代人ゲノムが読まれているんですよね。】
参考: 古代人ゲノム解読による 古人類学への先駆的貢献
2010年から既に膨大な数の古代人ゲノムが解読されていると述べられています。
こうした解析結果からこれまでの常識を覆す結論が次々と導き出されているのです。
7:44
【いったい自分たちは今まで信じてきた常識って何だったんだろうって思うことがあるんですけどね。】
これは画期的な発言となる。ついに重鎮までもが常識に疑いを持ち始めたようです。
・澤田健一著 『古代文明と縄文人』 柏艪舎 204頁4行目から
【あるいは学会の重鎮に気を遣って声を上げられないのかもしれない。もしそうであるならば科学的データは何の意味ももたなくなる。誠実に科学と向き合っていただきたいものだ。くり返すが、もうそろそろ日本民族の北方進入論という非科学的な幻想を捨て去るべきである。】
考古学者たちはこれまで「日本民族はシベリアを経由して北方から入ってきたのは絶対に間違いない」と何の根拠も示さずに主張し続けてきました。それを「学会の結論」とまで言ってきました。
しかし、最近の核DNAの解析から日本民族はすべて南方系であることが証明されたのです。
ここに至ってシベリア横断ルートの主張は取り下げざるを得なくなったようです。
ところが、またもや怪しげな図を描き始めました。
9:20
シベリア横断ルートは消し去られましたが、今度は南方からの人々は遺伝的に分化していて、
① 沖縄ルート ② 朝鮮半島ルート ③ 樺太ルート
の3ルートに分かれて進入してきたのであり、北の人と南の人は別の人だと言うのです。
11:03
【縄文人もけっこう地域差があるってことが分かってきてて、まあ当然その日本列島でいきなり全部が混血して均一な縄文人ができるってことは今までは考えていたんですけど、ま、そんなことは実はあり得なくてですね、南は南の人たち、北は北の人たちだったんだろうというのが一般的な考え方です。】
え??? 何を言ってるのだろう??? どこの世界で一般的なの???
上の図の青線は分化して3ルートの点線は違う遺伝子を持っていると言っているようです。
どうしても学者は「北の人たちと南の人たちは絶対に別民族」でなければ困るようです。
そして、まだ日本民族を「二重構造」で説明をしていて縄文人と弥生人は別民族だとしています。
日本民族のご先祖様は単一民族であり、縄文人と弥生人は同じ人々であることはこれからも繰り返しご説明してまいります。
間違いに気がつき始めたものの、学会の迷走はまだまだ続きそうです……。
ただ、
絶対だと言い続けてきたシベリア横断ルートを消去したことは偉大な前進です。
⑨『大和朝廷vs邪馬台国』の宣伝令和6年1月21日
昨年(令和5年)12月6日にNHKBSで放映されたフロンティア「日本人とは何者なのか」をご覧になられた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。…
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衝撃的な内容でした。
日本の第一線の考古学者が何人も登場していましたが、
ようやく「日本民族北方進入論」が間違っていたことを認め始めたようです。
ここを一番強調して書いてきましたが、これから認められ始めることでしょう。
日本民族のご先祖様たちは、日本上陸前は南方にいたのです。
その具体的な経路を本書では解説しています。
今回の著作は10万年以上前の南アフリカから始まります。
そこから日本列島に上陸するまでの道のりを示しています。
その人々は魚を食べる人々なので、ユーラシア大陸の南側に沿って、
つまり海沿いに東へ東へと歩いてきたのです。
やがて東の先端で陸路が途絶えたためしばらくはそこにいました。
それは現在のカリマンタンからインドネシアあたりです。(当時その島々は陸続きとなっていた。)
ここまでの経路上に縄文遺跡からの出土物と同じ貝製ビーズなどが残されているのです。
そこで約5万年前に刃部磨製石斧という研ぎ澄まされた石斧を手にしました。
その鋭利な石斧で大木を切り倒し、その大木で丸木舟を造るようになったのです。
インドネシアの遺跡からは外洋を高速で遊泳する魚の骨が大量に出土しています。
舟の外面をツルツルに磨き上げることによって高速が出せるようになったのです。
岩のように重い重量があり、空を飛ぶような速い舟は「天の磐船」と名付けられた。
その「天の磐船」に乗ってイザナギの船団は日本初上陸を成し遂げたのです。
それは今から3万8000年前のことになる。
ここから日本列島における歴史が始まるのです。
はじめは列島内で均一な道具を使い同じ暮らしをしていたのですが、
2万8000年前を過ぎると道具に地域差がうまれ、異なる集団となっていく。
弥生時代に入ると列島内にいくつものクニが生まれることになるが、
その中心となっていたのが大和朝廷と邪馬台(ヤマト)国です。
そして弥生時代後半に大和朝廷が、数代の天皇にわたって国内の再統一を行なっていく。
邪馬台国側の勢力は徐々にそぎ落とされ、最終決戦は364年になるのです。
なぜそれが364年だと分かるのかちゃんと理由があるのです。
魏志倭人伝だけ見ていても分からないですが日本書紀と新羅本紀をあわせ読むと、
はっきり分かるのです。それを「大和朝廷vs邪馬台国」を読んで確かめてください。
また、従来から魏志倭人伝の「水行十日、陸行一月」の読み方が問題となってきた。
実はこの記述を実際の距離に置き換える試みには全く意味がないのです。
魏の郡使は非常に過大に誇張された日数を倭人から一方的に伝えられただけなのです。
記録を残した魏の郡使も実際の里数は得られなかったと自分ではっきりと書いています。
それは何故かという理由も含めてそのカラクリを本書で確かめてください。
さらには魏志倭人伝には侏儒国(こびとの国)のことが記載されているのですが、
その位置の説明はフローレス島の位置を示しています。
驚くことに侏儒国の人の身長の説明は、実際のフローレス原人の身長と一致しているのです。
ご先祖様は南方にいた頃に大人の身長が1mしかないフローレス原人に会っていたのです。
そのあまりにも小さい人たちを見て衝撃を受けたのでしょう。
その衝撃が邪馬台国の侏儒国とアイヌのコロポックル伝説となっているのです。
⑩神武東征・船出の地を訪ねて 縄文アイヌ研究会 主宰 澤田健一令和6年6月5日
去る5月30日(金)に㈱データマックスの児玉会長のご案内により、神武天皇が東征に向けて船出された美々津の里を訪ねてきた。児玉会長は博多から鹿児島までお越しくださり、…
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そこから宮崎県日向市に向かうという大遠征を敢行され、心から感謝に堪えない。
道中では西都原(さいとばる)古墳群のご案内も頂いた。かなり多くの古墳群があるばかりではなく、展示館には旧石器時代から古墳時代までの連続した展示がされており、非常に見応えがあった。展示方法にも手が込んでおり大変参考になったが、そこに言及すると話が長くなり過ぎるため美々津の話に入ることとする。
今から2683年前、高千穂におられた神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、のちの神武天皇は奈良の橿原に向けて旅立たれた。それまでは南部九州が日本の中心であったのだ。先にその解説を少しだけする。
日本民族は列島に上陸する前、カリマンタンなどの南方の島々にいた。そこから丸木舟に乗って日本列島まで到達したのである。それを成し遂げるためには、途中の海域に流れる世界有数の強い海流を突破しなければならない。この困難な外洋航海は丸木舟でなければ達成できない。筏や草舟では海流を横切ることはできず、太平洋のど真ん中に押し流されて死を待つしかない。その丸木舟は岩のように重く、空を飛ぶがごとくの高速が出せる。そうした理由からその丸木舟は『天磐船(あまのいわふね)』と呼ばれた。日本神話は物語として事実を伝えているのである。
その日本初上陸の地は、薩摩半島の西南端にある黒瀬海岸(南さつま市笠沙町)であり、そこは神渡海岸と呼ばれている。この地に神が渡って来たと言い伝えているのだ。それは後期旧石器時代である3万8000年前の出来事である。しばらくはテント状の簡易なイエに住んで、日本列島を遊動してあるく生活をしていたと考えられている。そのテントの址が見つかっているのだが、南部九州は早くから定住がはじまっていたとされる。なぜなら4kgもある石皿が発見されており、そんな重い皿を持ち運んでいたとは考えられないからである。
つまり南部九州が拠点であったのだ。それは日本民族の故地である南方の島々に一番近いからであろう。丸木舟に乗って日本列島にまでやって来られるのは、強い海流を突破するスピードを出せる力持ちだけである。核DNAの分析によると、日本民族の最初の集団はおよそ1000人程度だったとされており、特別力の強い1000人だけが海流を突破することができたのだ。
黒瀬海岸の石碑(下に何方かお酒をお供えされている)
と言うことは親兄弟や親族たちの多くは南方の島々に残るしかない。それで日本列島の西南端を拠点としていたのであろう。「魏志倭人伝」でも、九州の人々が片道を一年がかりで南方の島々と行き来していたことが記されている。余談になるが、その南方の島の一つに侏儒国というのが記載されている。侏儒とは小さな人のことであり、その人々は大人になっても身長が3~4尺(約1m)しかないという説明がされている。
そして南方の島々の中にはフローレス島という島があり、そこに住んでいたフローレス原人は実際に大人の身長が1mほどしかないのである。フローレス原人はホモ・サピエンスとの接触により絶滅したとされる。かなり最近まで生存していたようで、縄文時代がはじまる直前まで生きていたようだ。そうなると日本民族が南方にいたころにフローレス原人と出会っていたことになり、それが九州の侏儒国伝承となり、アイヌのコロポックル伝説となっているのだろう。日本神話は真実を物語として伝えているのだ。
しかし、神武天皇の時代になるとほとんどの親族は日本列島の中にいて、そのため日本列島の中心に拠点を移そうと考えられたのであろう。ここから拠点探しがはじまった。多くの神々と相談したところ、塩椎神(しおつちのかみ)の提案により大和の地を目指すことになった。そこで船出の準備をするために美々津の港に降りてこられたのである。
美々津の立磐神社には神武天皇の御腰掛岩(おこしかけいわ)があり、ここに座られて軍議を開かれたのだと伝わる。ここで軍船を準備し、舟師(ふなし)や戦人(いくさびと)をそろえて東征の準備をされたことから、この地は『日本海軍発祥之地』とされている。準備が整い、船出は旧暦8月2日とすることになった。
ところが遠見の山で凧をあげて風向きを調べ、港からは小舟を出して潮の流れを調べたところ、予定の前日となる8月1日に風も潮も絶好の好機となった。そこで急遽1日の午前2時になって、舟を出すことを決められた。
そこから村の人々を起こして回る。「今から舟をだすぞーみんな起きよ、起きよ、美々津の者どもみんな起きよ起きよ!」と言って家々を回り人々を起こした。驚いて飛び起きた村人たちは困惑した。2日の船出に合わせて団子を差し上げる準備をしていたのだが、団子を作っている時間はない。そこで準備をしていた米粉と小豆を混ぜ合わせて蒸し、臼でついて団子らしいものにして差し上げた。それを神武天皇はたいへん喜ばれたのだという。
美々津ではこの風変わりな「お船出だんご」を「つきいれ」と呼び、今でも実在する独特な団子となっている。ところが、美々津の人が全員作れるわけではないのだと言う。船出が突然開始されることになったため、それに気づかずに寝ていた人がいたそうだ。それでその家の人びとは「つきいれ」を作ることを未だに禁じられているのだ。
更にこの逸話にまつわる行事が今に伝わっている。旧暦の8月1日には「おきよ祭り」が今でも行なわれており、明け方に短冊飾りを付けた笹の枝を持った子供たちが町の家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いて人々を起こして回るそうだ。
また、神武天皇が御腰掛岩の近くに立って下知をされていると、着ておられる服にほころびがあった。そこで急いでいたために、立ったまま童女に繕わせた。それで美々津のことを別名「立縫(たちぬい)の里」と言う。
美々津の古歌
美々津とはたが言ひそめし旅衣 君きて縫ふや立縫の里
御腰掛岩
こうして神武天皇は、お舟出を祝う旗と里人たちに見送られて、七ツ礁(ばえ)と一つ上(かみ)の間(お船出の瀬戸)をお船出したのだと伝わる。
この岩を通過して船出をされたと伝わる
このように美々津には具体的な逸話が数多く残されていて、その伝承を美々津の人びとは大切に守っているのだ。嘘や作り話が2000年以上も残るはずがない。日本民族はこのような事実を神話として伝え継いできたのであり、これからも大切に守っていかなければならないと改めて心に刻んだ旅となった。
最後に改めて児玉会長には心から感謝を申し上げる。
⑪天の磐船 令和6年7月7日
日本神話では日本民族の祖先は天の磐船に乗ってやって来たと伝えられている。
アイヌ神話でも舟に乗って天から降りてきたということになっている。そして太古のアイヌは風に…
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乗って世界中どこにでも飛んで行けたと伝えている。
もう何度も説明していますが、アイヌ語の「アイヌ」とは「人」という意味でしかありません。
つまり太古のアイヌとは神代日本人のことを指しているのです。
その頃は日本人などという言葉はなく、その人々は「夷」を自称し、夷を誇りに思っていたのです。
しかし、誇りある民族「夷」であっても、さすがに空など飛べるはずがありません。
その天の舟とは、天を駆けるほどのスピードが出せる舟という意味なのです。
今でも大急ぎで行くことを「飛んでいく」と表現しますし、その表現は昔から変わらないのです。
また、天の磐船には「磐」という言葉が使われていますが、これにも重要な意味があります。
それは岩のように重い舟ということであり、大きな重量があったことも大切な要素なのです。
要は、南の島から舟に乗って日本列島に到達するためには重さと速さが必要だったのです。
なぜなら、南の島々と日本列島の間には世界有数の強い海流が流れているからです。
軽い舟や遅い舟では海流に流されてしまい太平洋のど真ん中で死を待つしかない。
重たい舟であれば海流に抵抗でき、速い舟であればそれを突破できるのです。
それを国立科学博物館の人類研究部人類史研究グループ長(当時)であった海部陽介先生が実証実験で証明されました。
はじめは竹いかだや草たば舟で挑戦されたのですが、海流に押し流されてしまいました。
しかし、丸木舟で挑戦すると見事に海流を横切って200km以上の渡海に成功されたのです。
太古の昔には伴走船も地図もGPSも科学的サポートも何もありません。
水平線の下になっている次の島まで、その方角は渡り鳥の飛んでいく先を正確にたどる必要がありますし、それは夜間でも針路を見失っては命取りになってしまう。
したがって、日中は太陽、夜間は月や星々の動きを正確に把握して針路を求めたのです。
そして夜間に睡眠をとってしまえばその間に流されてしまいますし、交代で休めるほどの乗員もいない。せいぜい5、6人しか乗れないのです。
海部先生の舟はサポート船が伴走していますので安心して眠ることができましたが、大昔ではそうはいかない。ということは昼夜を問わずひたすら漕ぎ続けるしかありません。
最近の核DNAの研究によると、いちばん初めのご先祖様たちの集団は1000人程度だったといいます。それは言い換えると、日本列島までの渡海に成功したのは1000人しかいなかったということになります。非力な人間を乗せた丸木舟は太平洋の藻屑となってしまったのです。おそらく多くの犠牲をともなったうえでの、日本初上陸だったのでしょう。
その力の強い人々は、丸木舟に乗って南の島から北上してきたのですから、初上陸地点は日本列島南端となるのです。
(当時は九州・四国・本州は陸続きとなっていて古本州島と呼ばれる。)
日本神話ではそこは薩摩の黒瀬海岸ということになっていますが、合理的に理解できます。
「天の磐船」も「黒瀬海岸」も、日本神話は史実を物語として伝えているのです。
つまり、
力の強い人々が重くて速い「天の磐船」に乗ってやって来たのです。
⑫日本民族の三重構造(裏付け) 令和6年8月13日
以前に「日本民族の三重構造」という説明をしました。
HPの中にある「コラム」欄の⑦がその項目になります。…
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その時点ではサンプル数の少なさが課題でありました。
ところがその課題を克服するデータがついに発表となりましたので、それをご紹介いたします。
それは今年(令和6年)4月の理化学研究所の発表です。
全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴
このサブタイトルが物凄いのですが、
『-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-』
つまり、私たちの体にはネアンデルタール人やデニソワ人の血が流れているのです。
その古代型人類の遺伝子が現代の私たちの疾病に及ぼす影響まで解明され始めています。
これから更に具体的な証明がなされていくことでしょう。
では、今回の重要な指摘ポイントを見ていきます。
『今回、共同研究グループは、バイオバンク・ジャパン(BBJ)が提供した3,256人分の日本人の全ゲノム情報を分析しました。』
これまで日本民族のゲノム解析は遅れており、一個体あるいは数個体のデータで論じられてきました。それが今回は3,256人分ものデータ解析に基づく研究成果なのです。データ数が少ないという弱点を完全に克服しています。
それでは理化学研究所の指摘を見てみましょう。
『現生人類(ホモ・サピエンス)の最も近縁とされる古代型人類ネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだ遺伝子領域を特定しました。』
私たち日本民族の体には古代型人類の血が流れているのです。
その遺伝子領域の特定まで終わっているというのです。
そして今回一番重要であり、必ずご理解して頂きたい指摘が最後のほうに記されています。
まず、
『最近日本列島の遺跡から出土した人骨のゲノムの研究による「三重構造」モデル、すなわち、縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡ってきた集団、そして東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡ってきた集団の三集団の混血により日本人が形成されたという説が提唱されました。』
これまで日本民族は「二重構造」で説明されてきました。縄文人が住んでいた日本列島に、朝鮮半島から渡来人がやって来て弥生時代を迎えたと学者たちは解説してきたのです。縄文人と弥生人は別民族だと言うのです。それは絶対に間違っていると私は主張してきました。それを学術的に指摘してくれたのが「三重構造」説でした。
ただし、
『先行研究で用いられた古人骨全ゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていました。』
サンプル数の少なさが弱点となっていたのです。
それを克服したのが今回の研究成果です。
『本研究は、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいて、この三重構造モデルの裏付けになり、日本の人口構造をより適切に説明する可能性があると考えられます。』
今回の解析結果は「三重構造」の裏付けとなったのです。
それでも『適切に説明する可能性がある』という抑制的な解説となっています。
『理化学研究所などが取得した約27万人のゲノムデータを保有する。』
とされており、実は理化学研究所は27万人分ものデータを保有しているのです。
これからより大量のデータ数に基づく、より完璧な解析がなされていくことになるのでしょう。
解説 【日本民族の三重構造】
① <祖先集団>
・3万8000年前=南方から舟で北上してきたホモ・サピエンスが古代型人類と混血
⇒【夷】 の誕生!
(注:これを縄文人ゲノムと呼びますが、この時点では後期旧石器日本人です。)
② <第二集団>
・弥生時代=【北東アジア起源の遺伝子】 が混入されます。
(注:これはスキタイとか匈奴や諸夷と呼ばれる人々ですが改めて解説します。)
③ <第三集団>
・古墳時代以降=【東アジア起源の遺伝子】 の混入が開始されます。
(注:これが朝鮮半島から渡ってきた漢民族や朝鮮系民族です。)
これらの詳しい解説は追々していきますが、
ここでは重要な一点だけ押さえておいてください。
それは、
弥生時代に朝鮮半島からの異民族流入などなかった!!
朝鮮半島からの渡来人は古墳時代になってから入ってくるのです。
つまり、
弥生人は稲作渡来人ではない!!
ということです。