できれば上から順にお読みください。
①中部ヨーロッパの最終氷期と人類の適応
重要となるのがドイツのライン川東岸、ケルンの南約50Kmにあるゲナスドルフ遺跡である。
中部ヨーロッパの最終氷期と人類の適応…
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この論文の844頁、『Ⅲ.遺跡にみる人類の適応』の本文9行目から次の指摘がされている。
【その全体像を提示した研究となると、まだゲナスドルフ遺跡の研究例以上に追及することは容易でない。】
つまり最終氷期の中部ヨーロッパの指標となる遺跡なのである。
この遺跡を研究されたゲルハルト・ボジンスキーというケルン大学の教授(考古学)がいる。
1937年生まれで、ヨーロッパのみならず旧ソ連邦の旧石器時代考古学にも通じ、ヨーロッパ全体の旧石器時代研究を代表する一人だと紹介されている。
・G.ボジンスキー著/小野昭訳『ゲナスドルフ――氷河時代狩猟民の世界』 六興出版
・37頁8行目から
【ゲナスドルフ遺跡の住居址の層準は、古ドリアス期よりも前の、ベーリング亜間氷期とよばれる温暖期に属する。放射性炭素(C14)の年代測定の平均値によると、住居址は紀元前1万400年である。】
・40頁6行目から
【地層断面の最下部に、レス層に代わって水平に堆積した暗色の玄武岩質凝灰岩がつづく。この凝灰岩は「エルトフィラー・タフ」といって(中略)。エルトフィラー・タフは紀元前2万年に属し、これは最終氷期の最寒冷期にあたる。(中略)すこぶる寒冷な気候帯のこの時期には、中部ヨーロッパには、そしてここライン地方にも、人類は居住していなかったようである。】
ボジンスキー教授は、最終氷期には寒すぎて人類は中部ヨーロッパに居住することができなかったが、最終氷期が1万2000年前に終って気温が上昇し、1万400年前頃になるとヨーロッパ人が戻ってきたと考えられた。
ところがこの1万400年前という測定結果が大きく修正されることになる。
上記『中部ヨーロッパの最終氷期と人類の適応』の
・841頁左段2行目から
【最終氷期の環境と人類の適応関係をみる際に最も基礎的で重要な枠組みは編年である。編年の枠組みはこの10年間で劇的に変化した。高精度の編年がさまざまな研究分野で進捗し、一昔前のおおづかみな編年を打破したばかりでなく、(後略)】
・844頁右段5行目から
【しかし、近年AMS法による再測定がおこなわれ、複数の年代の中央値をとって較正年代に直すと15,145 ± 155 cal BPとなる。この年代値はベーリング亜間氷期ではなくそれよりも前の亜氷期である最古ドリアス期にあたる。】
つまり、ゲナスドルフ遺跡は最終氷期の寒冷期まっただ中の遺跡であり、暖かくなったからヨーロッパ人が戻ってきたとする見解は成り立たなくなったのだ。
それでは、最終氷期の中部ヨーロッパに集落を形成して住んでいたのは誰なのだろう?
・『ゲナスドルフ――氷河時代狩猟民の世界』 46頁本文4行目から
【アザラシの骨はゲナスドルフ遺跡から発見されてはいないが、出土したスレート板にいくつものアザラシの線刻画がみとめられる。】
・『中部ヨーロッパの最終氷期と人類の適応』 844頁右段下から10行目
【発見された動物骨の資料も豊富で1986年の発掘で種が同定された資料が2,500点である。】
2,500点もの骨が出土しているのにアザラシの骨は1点も出てこないのである。
ゲナスドルフ遺跡に住んでいた人々はその周辺では捕獲できないアザラシを知っていたのだ。
暖かい南方に避難しているヨーロッパ人がアザラシを目にする機会などない。
それは最終氷期の北海道にも住むことができていた日本民族でしかないだろう。
その人々であれば北海道でも北極海でもアザラシは身近な存在なのである。
・『中部ヨーロッパの最終氷期と人類の適応』 846頁左段 4)移動のサイクル
【大形住居を利用して冬にライン川と河岸段丘上の資源を利用した狩猟民は、冬にはここで生活を営み、夏はここを去って北に移動していったことが推定されている。】
ゲナスドルフ遺跡の人々は暖かい南方と行き来していたのではなく、更に寒い北方と行き来していたのである。
日本民族がシベリア経由で北方から中部ヨーロッパに入っていったルートと整合性がとれる。
・『ゲナスドルフ――氷河時代狩猟民の世界』 100頁後ろから3行目
【しかし、4万点以上に上る石器資料は、中部ライン地方にはないフリントで作られている。それはフリントが北ドイツからもちこまれたということである。】
→その人々は北方から大量の石器を持ってやって来た
・『ゲナスドルフ――氷河時代狩猟民の世界』 114頁8行目から
【小形で尖った部分に研磨された小さな面をもち、おおむね三角形をした粘板岩の破片がある。あるものの表面を平滑にしたり研磨したりするのに使われたのだろう。】
→ヨーロッパ人が石の研磨をするのは1万年前、日本民族は3万8000年前
この他にも、赤色顔料、動物の骨を使ったアクセサリー、数珠玉、貝製の装飾品などなど、日本と同じ物が出土するのである。とくにスレート板に穴を開けているが、石の研磨・穿孔せんこう(穴を開ける)技術は、その当時では日本民族しか確認されていない。
参考 富士石遺跡出土石製装飾品 – 文化遺産オンライン
穿孔途中の石器(それともこれで完成品なのか?)
最終氷期の中部ヨーロッパに生きていたのは日本民族なのである。
②後期旧石器時代のシベリア文化
後期旧石器時代は、最後の氷河期という意味で「最終氷期」と呼ばれる時期にあたる。
その最終氷期(氷河期)まっただ中の遺跡がシベリアの大平原に広がっている。…
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シベリアは古代文化の発祥地であり、ここから世界中に文化が広がっていったと考えられてきた。
・G.A.フロパーチェフ・E.Ju.ギリヤ・木村英明著/木村英明・木村アヤ子訳
『氷河期の極北に挑むホモ・サピエンス【増補版】――マンモスハンターたちの暮らしと技――』雄山閣
・3頁本文12行目から
【有り余るほどのマンモスの牙や角素材が、石器時代の骨加工技術の発展に重要な役割を果たした。金属器を有していなかった時代の人々でも、マンモスの骨やトナカイの角の加工法に深い知識を持っていたことを物語る、技術的に極めてユニークな製作物が多数発見されている。例えば、後期旧石器時代のスンギール遺跡における10代の若者たちの墓に納められていた長さ2mの真っすぐな槍(注:マンモスの牙を真っすぐに加工した槍)や、コスチョンキ1遺跡、アヴジェーエヴォ遺跡、ガガーリノ遺跡、ザライスク遺跡、ホチュレヴォⅡ遺跡、マリタ遺跡などから出土した「旧石器時代のヴィーナス」などの製作物がよく知られている。】 (注=筆者)
・163頁下から8行目から
【スンギール遺跡は、ロシアの首都、モスクワの東方のウラジミール市郊外、ドブルイ村とボゴリュボヴ村の間に位置する。北緯56°11′、東経40°30′。クリャズィマ川(ロシア平原)の左岸、小さなスンギール川との合流点近くの比高60mの分水嶺にある。北方に位置する数少ない遺跡であるばかりでなく、豊かな文化内容からヨーロッパの後期旧石器時代を代表する遺跡のひとつと言えよう。】
代表的なスンギール遺跡の豊かな文化内容はヨーロッパの文化だと考えられてきたのだ。
そして細石器もシベリアで誕生して、ここから世界中に伝わっていったとされてきた。
シベリアはシャーマニズム信仰の本山であり、ここから世界中に広まったと考えられてきた。
ここシベリアを拠点として豊かな文化や、細石器などの技術、そしてシャーマニズム信仰が世界中に拡散されていったのは間違いがない。
しかし、それをヨーロッパ文化だとするのは、絶対にあり得ないのである。
・添付1:ピョリョリョフ遺跡 石製垂飾
この図の11~15が石製垂飾である。ご覧のとおり、石に小さな穴が開いているのが分かる。
つまり、この遺跡の人々はその当時に石に穴を開ける穿孔せんこう技術をもっていたのだ。
・添付2:コスチョンキ遺跡 石製女性像
この遺跡の人々は石を削ったり磨いたりして妊婦と思われる女性像を作っていたのである。
つまり、この遺跡の人々はその当時に石を磨く研磨技術をもっていたのだ。
問題はこれらの遺跡の年代である。
・同著 167頁 14行目から
【遺跡領域での人びとによる積極的、活動的な生産活動は、主に29,000~26,000年前の期間に行われたもので、25,000~23,000年前より新しい時期になるとやや衰退することが指摘されている。】
日本民族は後期旧石器時代から石の研磨・穿孔技術をもっていたことが確認されている。
しかし、ヨーロッパ人が石の研磨を始めるのは、せいぜい1万年前なのである。
したがって後期旧石器時代のシベリアに添付1や添付2の石製品をヨーロッパ人がのこせる筈がないのである。
結論として、これらの遺跡を残せたのは日本民族でしかあり得ないのだ。
特に添付2の「旧石器時代のビーナス」は後の「縄文のビーナス」とそっくりである。
棚畑遺跡(長野県)出土の「縄文のビーナス」(縄文中期)
また、添付2の本文にマーカーで印した箇所には次の記述がされる。
【床面をいくらか高くした敷地に半地下式の竪穴構造が周囲を楕円形にめぐり、9つの炉がおおよそ中心軸に沿って並ぶ】
【貯蔵穴などが周囲に配置される複合施設】
周囲に貯蔵穴をもった、炉を備えた竪穴住居が楕円形に並ぶ集落、それは後の縄文集落そのものの形式である。
ということは、後の「縄文のビーナス」や縄文集落の原型が、すでに後期旧石器時代のシベリアにおいて誕生していたということになるのであろう。
これらの遺跡からは、大量の頁岩けつがん製垂飾、貝製品、動物の骨製のビーズなど、各種の装身具が出土するのだが、それらは後の縄文遺跡からの出土物と同様なのだ。
そして、前回の項でご説明したとおり、後期旧石器時代の寒冷期はヨーロッパ人には寒すぎて中部ヨーロッパにすら住むことができなかったのである。
ところがスンギール遺跡は北緯56度の極寒の地であり、ヨーロッパ人がいる訳などないのだ。
つまり、
最終氷期のシベリアの大平原に生きていたのは日本民族なのである。
③細石器の誕生~中石器時代の幕開け
後期旧石器時代における細石器の登場は世界を変える画期的な大発明であった。
細石器とは小さく鋭い石器片(細石刃)を、槍などの先端に溝を入れて、そこにノコギリ状に並べて…
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はめ込んだものである。その一部が損傷したり欠落したりした場合は、その部分だけ新しい細石刃と交換すればよい。小さくて持ち運びやすい細石刃を持ち歩けば、いつでも鋭利な状態で使うことができるのである。まさに天才的な大革命である。
石器技術が新たな時代を迎えたことになり、細石器が登場した地域は中石器時代(中期旧石器時代とは違う)と呼ばれることになる。その技術はシベリアで誕生したと考えられてきた。
ところがそれは誤りであった……。
A01班研究報告書 2017年度
・33頁 「2.ヤナRHS遺跡とMIS3後半における人類活動の根拠」 本文1行目から
【シベリアの旧石器時代研究では、北緯50度から55度にかけての、いわゆる南シベリアを中心にして長らく研究が進められてきた経緯がある。その中でモチャーノフらは、1960年代から、北緯55度から65度にかけてのアルダン河流域を主な対象として遺跡調査を進め、そこで発見された遺物群をもとにデュクタイ文化を提唱する。遺跡としてはイヒネⅡ遺跡やウスチ・ミリⅡ遺跡などがある。デュクタイ文化は、細石刃技術の起源や新大陸への拡散にもかかわっていて大きな注目を集めたが、3万年前よりも以前にその出現が遡るとされた年代観については、データ解釈の妥当性をめぐって多くの批判を浴びるようになる。現在にいたるまでも良好なコンテクストで測定された証拠から、デュクタイ文化の出現年代が3万年前よりも以前になることを支持する事例は得られていない。ピトゥリコらの近年の見解では、デュクタイ文化が北東アジア諸地域にひろがり始めた年代は、放射性炭素年代でおよそ18,000~17,000 yrs BPであり、その初期の段階の年代がより遡ったとしても23,000~22,000 yrs BPより古くはならないであろうとしている。LGMおよびそれ以降の位置づけということになろう。】
ここで指摘されているのは、細石器の故地とされていたデュクタイ文化の年代が、遡ったとしてもLGM(最終氷期最寒冷期)がギリギリのところであろう、ということである。
問題はその年代である……。
1999年度考古学協会釧路大会発表要旨を出典とする、㈶北海道埋蔵文化財センターの福井淳一氏の『細石刃石器群の出現―柏台1遺跡―』を抜粋すると次の指摘がされている。
【これまでEn-aの下降年代は12000~15000y.B.P.とされてきたが、最近では16000~19000y.B.P.と推定されるようになっている。】
(注:En-a=恵庭のa下降軽石層)
【幸い、この石器群を含むほぼ全ての遺物集中域からは、炉跡が良好な状態で検出されたため、14C年代測定(AMS法)により年代測定を行うことができた。(中略)測定された年代値の中央値から約20500y.B.P.とすることができる。】 (注:AMS法=加速質量分析法)
【しかも、この段階ですでに細石刃技法が確立されていた様相を示しており、細石刃石器群の出現はさらにさかのぼるものと考えられる。】
この研究が進められ、2020年度の研究報告が下記である。
パレオアジア 文 化 史 学
・46頁 左段2行目から
【「故地」とされる北海道の細石刃技術の出現は、確実な層準から細石刃が検出された柏台1遺跡の年代を基準とし、LGMまで遡る。】
・50頁 右段下から2行目から
【LGMを26,000-19,000年前ととらえるならば、北海道で最古の細石刃技術が確認された柏台1遺跡の年代が25,000-22,000年前となり、LGMの最中に細石刃技術が北海道に存在したことになる。】
つまり、 細石刃技術の「故地」は北海道なのである。
これまで、古代シベリアにはヨーロッパ系の文化が展開されていて、そこで誕生した細石刃技術が北海道に伝わったと考えられてきた。
しかし、それは誤りで、日本民族が北海道で誕生させた細石刃技術がシベリアを経由して世界中に拡散していったのである。
そもそも後期旧石器時代である最終氷期には、ヨーロッパ人は中部ヨーロッパにすら住むことができずに暖かい南方に避難していたのである。シベリアになど一人もいないのだ。
つまり、
デュクタイ文化の担い手も日本民族でしかあり得ないのである。
④最終氷期における世界の古代遺跡
これまで古代ヨーロッパと古代シベリアの後期旧石器時代遺跡をいくつか見てきましたが、それらの遺跡を残したのは日本民族であると解説してきた。…
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なぜ日本民族の遺跡ばかりなのか疑問に思われたり、そんな筈はないと疑いを持たれたりする方もいることであろう。
そこで今回は最終氷期における世界の古代遺跡について見ていく。
人類の歴史を見る前に、まず地球の歴史を確認しておく。
・藤尾慎一郎著 『日本の先史時代』 中央公論新社 16頁2行目から
【地質学では約260万年前以降を第四紀と呼んでいるが、そのなかでも、大半が氷期下にあった1万1700年より前の地質時代を更新世、その後の間氷期の地質時代を完新世と呼んでいる】
更新世のなかでは何回も氷期と間氷期をくり返しており、最後の氷河期を「最終氷期」と呼び、その時代が約5万年前から始まったとされる後期旧石器時代の期間にあたる。つまり、後期旧石器時代の地球は、人類の活動にとって非常に過酷な期間であったのだ。
その頃の地球の姿を確認しておく。
・安田善憲、阿部千春著 『津軽海峡圏の縄文文化』 雄山閣 9頁4行目から
【スカンジナビア半島は氷河時代には厚さ3000メートル以上の氷床に覆われ、アルプス山脈も中央ヨーロッパ平原も、氷河の下か周氷河地帯でした。アメリカ大陸北部も厚さ3000メートル以上のローレンタイド氷床に覆われていたわけです。】
その状況を確認したうえで、いよいよ後期旧石器時代の人類(ホモ・サピエンス)の活動状況を見てみる。この頃の有名な洞窟壁画として、アルタミラ洞窟やラスコー洞窟の壁画がある。
・セサル・ゴンサーレス・サインス、ロベルト・カチョ・トカ著/深沢武雄編/吉川敦子訳/関雄二監訳 『スペイン北部の旧石器洞窟壁画 概説』 テクネ 20頁後ろ5行目から
【ヨーロッパの後期旧石器美術に関する遺物としては、洞窟壁画と動産美術があることがわかっていた。(中略)双方とも南は地中海沿岸からイベリア半島、北はピレネーを経て南フランスから東欧にかけて広く分布しているが、特に顕著なのはアルタミラ洞窟を擁する北スペインのカンタブリア地方とラスコー洞窟を擁するフランスのドルドーニュ地方であり、それぞれ100余の壁画包含洞窟が確認されている。】
有名な壁画群がヨーロッパに広がっているが、それでも一地方の数としては1世紀以上探しても100単位なのだ。
ところで、後期旧石器時代の中部ヨーロッパには、ヨーロッパ人は寒すぎて住んでいなかったことを前回までに説明してきた。それでは南部ヨーロッパはどうだったのだろう。
・港千尋著 『洞窟へ――心とイメージのアルケオロジー』 せりか書房 143頁後ろ3行目から
【オーリニャック期からソリュトレ期にかけての旧大陸は氷河期にあたり、(中略)ヨーロッパの北部は万年雪に覆われていたが、フランスの南部にあたる地中海沿岸は、1年のうちに数ヵ月は雪が解ける比較的しのぎやすい気候で、気温も零下20度から15度くらいの間だったのではないかと想像されている。】
数ヵ月は気温が上がると言っても-20℃なのである。この気温をしのぎやすいと表現するのは無理があると思うものの、今回は目を瞑っておく。
次にお隣の朝鮮半島を見てみよう。
・田中俊明著 『朝鮮の歴史―先史から現代』 昭和堂 4頁本文15行目から
【本格的な旧石器時代遺跡の確認・調査研究は1960年以降、(中略)これまで確認されている遺跡は100余ヵ所に達し】
朝鮮半島では中期旧石器時代の遺跡も含んでの遺跡数ではあると思われるが、それでもせいぜい100程度なのである。
前回まで見てきた、有名な遺跡がいくつもあるシベリアの後期旧石器時代遺跡群であっても100の単位に収まるであろう。
ところが、日本の後期旧石器時代の遺跡数は、それらより2桁も多いのである。
・佐藤宏之著 『旧石器時代 日本文化のはじまり』 敬文舎 6頁本文1行目から
【日本旧石器学会が2010年に集計したデータによれば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は1万4500(ただし文化層ごとの合計)にのぼる。更新世(氷河時代または氷期)に属する縄文時代草創期の遺跡数が2500なので、合計すると、日本列島の更新世の遺跡は1万7000に及ぶ。この数は、世界的にみても突出した数値であり、密度となる。】
日本列島の旧石器時代遺跡
これの説明にあるように、重複文化層を1遺跡と数えても、旧石器時代遺跡が10,150遺跡、縄文時代草創期遺跡が2,432遺跡であり、合計12,582遺跡にもなる。上記のごとく、この数は、世界的にみても突出した数値であり、密度なのだ。
しかも、日本に旧石器時代が存在していたことが認められてからまだ半世紀しか経っていない。おそらく今後もまだまだ発見は続くであろう。
つまり、
後期旧石器時代の人類の遺跡はほぼ日本列島に集中しているのである。
しかも、海外の遺跡から出土する遺物には、その当時は日本民族だけしか持っていなかった技術で作られた物や、日本固有の物があるのだ。したがって、海外の遺跡であってもそれを残したのは日本民族によるものが多いのだと考えられる。
⑤後期旧石器時代の南米大陸(前編)
古代の南米大陸にはインカ帝国へとつづくアンデス文明を築き上げた人々がいた。
それでは、初めて南米大陸に足を踏み入れた人々はどのルートで入ってきたのだろうか。…
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ほとんどの考古学者はシベリアからアラスカ・北米を通過して南米大陸まで南下してきたと説明する。しかし、それは絶対にあり得ないのである……。
・民族藝術学会編 『民族藝術 VOL.16 2000』 民族藝術学会刊 79頁 本文1行目から
【ブラジル北東部・ピアウイ州にあるセラ・ダ・カピヴァラ国立公園は、そこに多く分布する先史岩面画の質量両面における豊かさにより、ユネスコの世界遺産に登録されている。】
この先史文化はノルデステ文化と呼ばれている。
世界遺産オンラインガイドによると下記のように説明されている。
セラ・ダ・カピバラ国立公園 | ブラジル
(注) 他のサイトを見てもここの壁画で古いものは6万年前に遡るとされているが科学的な測定結果が示されていない。データ提示がない年代をそのまま信用するのは不安である。
しかし、オーストラリア北岸では6万年前近くにまで遡る刃部磨製石斧が出土しており、これらの年代が正しいのだとすれば、6万年前には刃部磨製石斧を使って丸木舟を完成させており、それで南太平洋を横断したのかも知れない。(筏や草束舟では外洋航海は不可能である。) ただし、現段階では判断保留としておく。
それでは科学的測定値によるこれら古代の岩面壁画の年代について見てみる。
・前著 81頁 下2行目から
【ノルデステ文化はブラジル北東部全域に認められるが、あらゆる考古学的資料はその文化がセラ・ダ・カピヴァラ国立公園地域で発生したことを示しており、そこでは現在までもっとも多くのノルデステ文化の岩面画作品が発見されている。岩面画はこの地域に住みはじめた人々により制作されていて、その伝統は少なくとも12,000年間つづいた。現在より18,000年前から6,000年前までこの地域のノルデステ文化はつづいたと考えられている。】
(6万年前は置いておくとしても)18,000年前にはすでに岩面画を制作していたのだ。
その国立公園内にあるボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の年代測定結果が示されている。
・同著 82頁 5行目から
【ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の発掘時に発見された彩画のある岩石断片からは、鮮新世の最晩期である29,000±650BP(GIF6651)という年代数値が示す時期に、人々が絵画制作をおこなっていたことを示している。】
ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の岩絵 Rock paintings of …
約3万年前に南米大陸で岩面画を制作していた人々がいたとなると、冒頭の説明は成り立たないのである。シベリアとアラスカの陸橋(ベーリンジア)が渡れるようになるのは12,000年前を過ぎてからであり、それ以前はアラスカからカナダ一帯は巨大で分厚い氷河に覆われていて、すべての動物の進入を拒んでいたのだ。(もちろん1万8000年前も同じ状況である。)
そうなるとその時点で南米上陸は、海から直接入るルートしか残されていない。
当時は最終氷期であり、海面が今より100メートル以上低くなっていた。
そして南太平洋には海底山脈が連なっており、おそらくそのいくつかが島となっていたであろう。
海面が上昇した現在でもクック諸島ほか多くの島々が南太平洋上に点在している。
その島々を辿って南太平洋を横断したとしか考えられないのだ。大西洋に海底山脈はない。
そしてアフリカから出た人類は7万年以上前には東南アジアに到達していた。
・小野林太郎著 『海の人類史』 雄山閣刊 52頁 8行目から
【おそらく新人と推測される人々が7万4000年前までには、この地域に居住していた断片的な痕跡はみつかりつつある。その一つが、インド南部にあるジュワラプラーム遺跡であろう。この遺跡では、約7万4000年前に大噴火したインドネシアのスマトラ島にあるトバ火山の火山灰の上下から石器が発見された。】
その人々が南太平洋を丸木舟で横断するしか南米到達の可能性はない。
ところがここに大問題がある。
なぜその人々は南太平洋の東はるか彼方に陸地があると分かったのだろうか?
大海原の遥か彼方に陸地があると確信しなければそんな無謀な挑戦をするはずがない。
たった一つの可能性は、渡り鳥の飛んで行く先に陸地があると判断するしか手段がない。
そうであれば、南太平洋を東西方向に渡りをおこなう鳥がいるはずだ。
そう考えて探してみたところ、見つけた!! マユグロアホウドリである!
マユグロアホウドリは同緯度地帯をたどって地球を周回する。
それは南緯20度付近であり、正にブラジルを横切っている。
マユグロアホウドリの飛行距離は驚異的に長く、島伝いに地球を周回するのである。
ゴルフの「アルバトロス」のことで飛距離の長さを表現するが、和名を「アホウドリ」と言う。
そんな長距離を飛べる優秀な鳥を、日本人のご先祖様は「アホウドリ」と名付けた。
それは「アホなほど簡単に素手で捕まえられる」ことから「アホな鳥」と呼んだのだ。
その簡単に捕まえられる(つまりアホな)鳥をたくさん捕まえておいて舟から放てば次の島を見つけることができる。だからこそ古代壁画の舟の舳先には鳥が描かれているのである。
(後編)につづく
⑥後期旧石器時代の南米大陸(後編)
世界中のシャーマンを研究されたルーマニア出身の宗教学者ミルチア・エリアーデは、
南米のシャーマニズムとオーストラリアのシャーマニズムの強い結び付きを指摘している。…
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・ミルチア・エリアーデ著/堀一郎訳 『シャーマニズム 下』 筑摩書房刊 64頁 17行目から
【われわれはこの驚くべき類似が、オーストラリア人と同様、最古の南米人が人間居住可能圏の先端にまで追いやられた、古代人間性の痕跡をあらわしていることによるのか、それとも南極を介して、オーストラリアと南米との間に直接の交渉があったのか、を決定するわけにはいかないのである。】
前段の考察「人間居住可能圏の先端では同じ人間性を有する」とするのには無理がある。
古代から南米では子供の人身供犠が行われていたが、オーストラリアでは確認できない。
古代からオーストラリアではブーメランを使っていたが、南米では使用されていない。
つまり、オーストラリアと南米には異なる文化・技術を持った人々がいたのだ。
異なる文化や技術をもった地域に、同じ儀式を行なうシャーマンがいたのである。
後段の考察「南極を介してオーストラリアと南米は直接交渉があった」とするのも不可である。
現代の我々は世界地図を知っているので、南極を介すればオーストラリアから南米大陸まで
渡ることが出来るかもしれないという発想が可能になる。
しかし、南極を知るはずがない太古の人々にそんな発想が生まれるなど絶対にない。
そうではなく、太古の人々はマユグロアホウドリを追って、オーストラリアから
南太平洋上の島々を経由して南米大陸まで丸木舟で渡ったのである。
その南太平洋上の島々では中央アメリカ原産のサツマイモが栽培されていた。
その人々はアメリカ大陸と舟で行き来していたことは間違いないのである。
また、イースター島のアフ・タヒラと呼ばれる台座は巨石がピッタリ組み合わさっており、
インカ文明の石組との関連性が指摘されている。
南米とイースター島には同じ巨石加工技術があったのだ。
18世紀に南太平洋を探検したジェームス・クック船長がその人々の暮らしを記録している。
南太平洋の人々はどこの島でも同じ道具を使い、地域的な特色はなかったと記される。
その人々は貝殻や動物の骨や歯で道具を作り、黒曜石を加工し、
刃部磨製石斧を使っていて、男も女もイレズミをしていた。
日本の後期旧石器時代から縄文時代の人々と同じ技術や習俗をもった人々なのだ。
つまり、
南太平洋を横断して南米大陸にまで渡ったのは日本民族なのである
ちなみに、中世ヨーロッパ人の中でも鳥が渡りを行うことを指摘する人もいたが、
スウェーデンの大司教であり歴史学者・地理学者であるオラウス・マグヌスは、
鳥も冬眠すると考えていた。(しかも奇妙な方法で。)
・ジョナサン・エルフィック編 『世界の渡り鳥』 ニュートンプレス刊 44頁コラム
【スウェーデンのウプサラ司教区の大司教オラウス・マグヌスは(中略)、北方の鳥は秋にはアシをねぐらとし、しだいに泥の中に沈んでいって、冬はそこで冬眠すると主張した。1555年に出版されたマグヌスの『北方国家の歴史』の木版画には、漁師が魚とツバメが入った網をたぐり寄せている絵がある。】
(注:網の中に魚とツバメが入っている)
つまり太古の人々が「鳥が渡りを行なう」と気づくだけでも画期的なことなのである。
さて、今回突然シャーマンの話が登場したが、ここは非常に重要なのである。
シャーマンは世界中にいるのだが、世界中のシャーマンは日本民族がもつ「天地開闢神話」をもっている。それは「天地創造神話」とは、それこそ天と地ほどの違いがある。
そしてシャーマンは古事記神話の世界観をもっているのである。
各地の記録では、シャーマンは現地の人々と異なる特殊な言葉を使っていたという。
それらは改めてご説明することとする。
⑦後期旧石器時代の北米大陸
最終氷期(北米ではウィスコンシン期と呼ぶ)には海面が100m以上も低下していたために、
シベリアとアラスカは陸続きになっていて、その陸橋はベーリンジアと呼ばれる。…
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ウィスコンシン期にも解氷期が数回あり、ベーリンジアは出現と消失を繰り返していた。
ところがアラスカからカナダ一帯は巨大な氷床に覆われていたために、
人や動物はその陸橋を渡ることが出来なかったのである。
その北米を覆いつくしていた巨大な氷床は1万5000年前頃から融けはじめ、
さらには1万3000年前頃には陸橋ベーリンジアが姿を現しはじめた。
それではじめて、ベーリンジアを渡った人々が北米大陸に足を踏み入れた……
と、考えられてきた。
しかし、2019年に、アイダホ州クーパーズ・フェリー遺跡の住居址が約1万6000年前の、
後期旧石器時代後半のものであると公表されたのだ。
つまり、最初に北米に足を踏み入れた人々は、陸橋を歩いて渡ったのではないのである。
人類の北米到達、定説覆す新証拠 アイダホ州の遺跡
しかも、驚くべき公表がつづく。
オレゴン州立大学のローレン・デイビス教授(人類学)の報告によると、
クーパーズ・フェリー遺跡の有茎尖頭器が、(北海道蘭越町の立川遺跡を指標とする)
立川型尖頭器と酷似していることを発見したというのである。
有茎尖頭器の型式変遷とその伝播
・50頁本文1行目
「縄文時代草創期を特徴づける石器として、有茎尖頭器があげられる。」
・51頁4行目から
「第二点として、有茎尖頭器の地域性の問題があげられよう。「立川型」・「柳又型」、或いは「小瀬が沢型」といった有茎尖頭器型式が相互に比較的独立した分布を有する」
・65頁15行目から
「Ⅳ型は従来「立川型」と呼称されていた曲型的な有茎尖頭器でもある。該当型式の本州地方での出土はV型と共に希少ではあるが、神奈川県黒川東遺跡、長野県狐久保遺跡、岐阜県九合洞穴遺跡等から出土している。」
世界史での1万6000年前は後期旧石器時代後半であるが、日本では縄文時代草創期になる。
そして、その時代の日本を特徴づける石器が有茎尖頭器であり、地域特性があるのだ。
立川型尖頭器は北海道の石器であり、本州地方では希少ではあるが数か所で出土している。
その特徴的な北海道の有茎尖頭器が北米(オレゴン州)から出土したのである。
それも、北海道での出現時期とほぼ同時期に、である。
日本民族は少なくとも3万8000年前から長期外洋航海を行なっていた。
ベーリンジアが通れない以上は、北太平洋を横断するしか北米上陸の手段がない。
つまり、
北太平洋を横断して北米大陸に北海道の縄文人が足を踏み入れたのだ
おそらく、北海道からアリューシャン列島・アラスカ・カナダの海岸線を辿って、
北米大陸の上陸しやすい地点を探したのであろう。
おそらく(現在の)ワシントン州からアイダホ州に入ったのだと思われる。
そこが氷床の南端から外れる位置にあたる。
⑧古代シベリア文化の担い手
古代シベリアは文化の発信拠点と考えられてきた。シベリアはシャーマニズムの本山とされ、ここから世界中にシャーマニズムが広がっていった。…
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また細石刃技術がここで誕生して、ここから世界に伝わっていった。シベリアは古代文化の源流とされてきたのだ。(本当の起源は日本だが)
それでは、シベリアの地で古代文化を担っていた民族について見ていく。
すでに後期旧石器時代のシベリアに豊かな文化内容を持つ古代遺跡を残したのは日本民族であると解説してきた。今回は時代が新しくなって、初期鉄器時代について見てみる。
該当する文化としては、ヤンコフスキー文化、クロウノフカ文化、ポリツェ文化がある。
・村上恭通編 『東夷世界の考古学』 青木書店
この書籍のⅥ章を引用するがこの章を書かれたのは1936年ウクライナ生まれの東洋学者、ディ・エリ・プロジャンスキー博士である。博士はロシア極東沿海地方における新石器時代から初期鉄器時代まで幅広く研究されている。
ヤンコフスキー文化
【ヤンコフスキー文化の貝塚における貝類のなかには温帯性のサルボウガイがみられるが、これは現在のピョートル大帝湾には存在しない。】 129頁
【ヤンコフスキー人は河川魚、海洋魚そして産卵遡河性の魚を捕った。漁労具のかなには、(中略)骨製回転離頭銛が含まれている。】 131頁
【ここで空色と緑色のオパールが採集できる(中略)。ヤンコフスキー人はこの石を筒形の管玉と勾玉に加工していた。】 134頁
【ヤンコフスキー文化の年代(中略)は総じて紀元前8~1世紀の年代を示している。】 144頁
クロウノフカ文化
【クロウノフカ遺跡の所在する地域の草原では、(中略)沿海地方ではじめてとなる青銅製三翼鏃を発見した。これは四角錐を呈し、太い袋部を有しており、後期スキタイ・タイプに属するものである。】 152頁
【ヤンコフスキー文化とクロウノフカ文化とはおおよそ相等しい時代幅を共有し、それぞれの歴史の大部分は同時進行していた。ヤンコフスキー文化のデータは上限が紀元前8世紀に達し、クロウノフカ文化のデータは下限が紀元2世紀である。】 159頁
ポリツェ文化
【ポリツェ文化はロシア極東地方の古金属文化のなかで最も広い分布領域】 161頁
【住居址は全ての発掘で検出されている。みな竪穴式(後略)】 163頁
【ポリツェ文化を3期に分け、ジョルティ・ヤル期は前7~前6世紀、ポリツェ期は前6~前1世紀、クケレヴォ期は前1~紀元4世紀】 169頁
【沿海地方のポリツェ人は上述したヤンコフスキー人、クロウノフカ人と同様に移動してきた人々であることは明白である。(中略)ヤンコフスキー人は南部から日本海沿岸地域に沿って北上したが、どこからやってきたのか、その地域を限定するのは困難である。】 171頁
ロシア沿海地方の初期鉄器時代の人々の暮らしを要約すると、貝塚をつくり、南洋の貝を持っていて、回転離頭銛を使い、オパールで管玉や勾玉を作り、竪穴住居に住む人々であり、縄文集落と同じ暮らしをしていたのである。そして、少なくともヤンコフスキー人は南方から日本海を北上してきた人々なのだ。
その人々とは日本からやって来た人々であり、縄文集落と同じ暮らしをしていたのである。
つまり、
ロシア沿海地方の初期鉄器時代の人々とは日本民族だったのである。
ただし、縄文集落と同じ文化をもった人々ではあるが、紀元前8世紀は弥生時代に入っている。
そして、日本民族は弥生時代になると北東アジアで第一弾の混血が開始されているのだ。
北東アジアにやって来た日本民族は、ここで本格的に他民族との交流が始まったのだろう。
これが以前にご紹介した下記論文概要(プレスリリース)と合致するのである。
パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造
・3頁4行目後半から。
【弥生時代には、北東アジアを祖先集団とする人々の流入が見られ、縄文人に由来する祖先に加え第2の祖先成分が弥生人には受け継がれている】
弥生時代の混血の相手とは朝鮮半島人ではなく北東アジア人なのである。
ここが非常に重要なポイントであるので、是非とも覚えておいていただきたい。
そして、紀元前8世紀頃からユーラシア大陸の北方地帯を制覇していたのがスキタイ人であり、クロウノフカの遺跡からスキタイタイプの青銅製三翼鏃が出土している。
・ヘロドトス著/松平千秋訳 『歴史 中』 岩波書店 18頁3行目から
【ゲロス河以遠は、王領のスキティアで、このスキタイ人は最も勇敢で数も多く、他のスキタイ人を自分の隷属民と見做している。】
ヘロドトスはスキタイの居住圏を4つに分け、一番東側に「王族スキタイ」がいるとしている。
・21頁12行目から
【右に列挙した地域はことごとく極寒の地で、一年のうち8カ月間はその寒気は耐え難く、この期間には地面に水を注いでも土はあらわれず、火を焚いてようやく土があらわれる。】
この描写はまさにシベリアを表現しているのであろう。その一番東側に王族スキタイがいて他のスキタイを隷属民としていたのである。王族スキタイとは縄文人の末裔であり、だからこそ吉野ケ里からスキタイが祖型とされる細形銅剣の鋳型が出土するのである。シベリアの地でも吉野ケ里でも同じ細形銅剣を製造していたのだ。
このように遺跡、出土物、放射性炭素年代測定、核DNA解析、ヘロドトスの記録などが綺麗に整合性をもち、そこに居たのは日本民族であったことが明らかになってくる。
なお、王族スキタイが日本民族である説明は次回出版作『世界に広がる縄文人の末裔たち(仮題)』でまとめることにする。
ご報告 : 次回作の準備に取り掛かりましたので時間がとられ、古代史解説の発信は間隔が空くと思いますが、気長にお待ちください。
⑨古代を解く鍵 その1:ネガティブハンド
以前は文明のあけぼのはヨーロッパから始まったと考えられていたのだと思う。
教科書でも一番最初にはラスコー洞窟やアルタミラ洞窟の壁画が紹介されていた。…
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その当時はそれでよかった……。
しかし、動物を描いた世界最古の洞窟壁画がインドネシアで発見されたのだ。
「世界最古」4万5500年前のイノシシ壁画 インドネシアで発見
インドネシアでもヨーロッパでも動物が赤い色で描かれている。
それだけならばたまたま偶然の一致かもしれない。
しかし、そこには同じくネガティブハンド(吹き付け手形)が描かれているのである。
・港千尋著 『洞窟へ――心とイメージのアルケオロジー』 せりか書房 54頁14行目から
【ガルガスの名を有名にしたのは、同じ壁に残されていた「ネガティブハンド」である。】
・同著 56頁16行目から
【「ガルガスの手」には大きな謎がある。手の全体像が残っている124点のうち、100点以上の手が指を1本ないし数本欠いているのだ。】
実は世界中の洞窟壁画には同じようなネガティブハンドが残されている。
世界のネガティブハンドや刻画には驚くべき共通性があり、多くは指が数本足りないのである。
北海道余市町のフゴッペ洞窟にも4本指の岩面刻画が残されている。
・小川勝編 『フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合研究』 中央公論美術出版 157頁左段最終行から
【フゴッペ人物の手が4本指であることを重視するが、世界の岩面画では、古今東西をとわず、2~5本とまちまちであり、指を5本全部あらわす方がむしろ例外である。】
ネガティブハンドとは手を岩面に押し当てて、その上から塗料を吹きかけて描く手形である。
指を折り曲げて吹き付けたならば、その部分は綺麗な線とはならずボヤけてしまう。
しかし、世界中のネガティブハンドはくっきりとした線が描かれている。
つまりその手の指は切断されているのだ。これは偶然では片付けられない。
モンゴルのホブド・ソモンの岩面刻画などは次のように指摘されている。
・峰山巌、掛川源一郎著 『謎の刻画 フゴッペ洞窟』 六興出版 127頁後ろ4行目から
【指が5本そろったものはほとんどみあたらず、1本あるいは2、3本切断している】
おそらくそれはシャーマニズム信仰からきているのだと考えられる。
実際に世界中の岩面画にはシャーマンが描かれていることが多い。
そして世界中のシャーマニズムを研究されたルーマニアの宗教学者ミルチア・エリアーデが重要な指摘をしている。それは世界のシャーマニズム信仰において、シャーマンになるための通過儀礼を調べた結果、その最大公約数的なものを列挙した項目の最後に記されている。
・ミルチア・エリアーデ著/堀一郎訳 『シャーマニズム 上』 筑摩書房 126頁12行目から
【苦しい試練。打撃、足を火のすぐそばにおいておくこと。空中につるされること。指の切断、および種々の他の残酷な行為。】
指の切断などの残酷な儀礼を経験してシャーマンとなっていくのだと言うのだ。
回を改めて説明するが、シャーマニズム信仰は日本民族発祥なのである。
ロシア・シベリア地方にも多くの先史岩面画遺跡が残されている。その中でキア遺跡について、
・民族藝術学会編 『民族藝術 vol.16 2000』 民族藝術学会 72頁15行目から
【3本指、4本指の手もいくつかある。(中略)顔の楕円形には、他の楕円が刻み足されている。】
キア遺跡の他でも描かれている顔には線が刻み足されている。それはイレズミをした顔なのだ。
マーイ遺跡の岩面刻画
これは顔にイレズミを入れた人々が丸木舟に乗ってやって来たことを記録しているのである。
世界中にネガティブハンドを残した人々は、顔にイレズミを入れていて、丸木舟で移動する人々であり、指の切断を行なうシャーマニズム信仰を持っていたのである。
イレズミ、丸木舟による外洋航海、シャーマニズム信仰これらはすべて日本民族の特徴である。
つまり、
世界中にネガティブハンドを残したのは日本民族なのである
⑩古代を解く鍵 その2:刃部磨製石斧
こちらをその1にした方がよかったかもしれない。
刃部磨製石斧とは後期旧石器時代に突然現れた磨製石器である。…
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刃の部分を磨き上げた石斧によって大木を切り倒せるようになったのだ。
これがあれば丸木舟を造れるのであって、外洋航海を行なうには必要不可欠な道具である。
日本列島では約3万8000年前から出土するようになり既に1000本以上が発見されている。
つまり日本の歴史は突然、新石器時代から幕を開けたのである!
しかし、そんなことはあり得ない。磨製石器を作るための前段の技術が絶対に必要である。
ではその技術はどこにあるのであろうか? それは南方にあった。
約4万2000年前のインドネシアのジェリマライ遺跡では外洋漁業が確認されている。
外洋を高速で遊泳する魚(サバ科)の骨が大量に出土するのである。
後期旧石器時代の外洋漁業は日本民族以外では確認されていない。
つまり4万年以上前には、日本民族のご先祖様たちは南方に居たのである。
そしてオーストラリア北部では約6万5000年前の刃部磨製石斧が出土している。
https://paleoasia.jp/wp-content/uploads/2018/04/paleoA01_2017.pdf
・「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組み構築」2017年度研究報告 東京大学総合研究博物館 58頁下から12行目から
【近年報告されたMadjebebe(MalakunanjaⅡ)遺跡では、6万5千年前に遡ると思われるPhase2から1点以上、5万年前に遡ると思われるPhase3からも3点以上の本体が刃部片とともに確認されている。】
この文章のすぐ後ろに【日本の石斧と比べると、全体的に研磨度が高く、】と記されており、まるで日本民族の物ではないという表現に読める。しかし、日本列島内で誕生したナイフ形石器も細石器も日本からアボリジニに伝わっている。刃部磨製石斧だけはアボリジニの発明とするのは無理があるだろう。
・堤隆著 『ビジュアル版 旧石器時代ガイドブック』 新泉社 49頁うしろから2行目
【この局部磨製石斧は、後期旧石器時代の後半になるとぷっつりと姿を消してしまいます。】
日本民族は新しい石器を次々と発明していき、古い道具を捨てて新しい道具を使い始めている。
それに対してアボリジニは20世紀になっても刃部磨製石斧を使い続けていた。
日本民族が居なくなった後のオーストラリア大陸では技術革新が起きなかったのだ。
前出資料の同頁(58頁)の分布図を見ると、オーストラリアにおける刃部磨製石斧は北岸地域に偏っていて、全体的には海岸域に集中している。
アボリジニの物であるならばオーストラリア全域で出土するはずである。
そしてオーストラリア北岸地域では弓矢の使用が確認されているのだが、アボリジニだけは世界で唯一弓矢を使わない民族なのだ。
順当に考えればオーストラリア北岸に居た頃の日本民族が弓矢と刃部磨製石斧を製造使用していたのだろう。
ただし、6万5千年前というのは推測値のようなので、いつから使用を始めたのかは定かでない。
ここではおよそ6万年前としておこう。
つまり、
日本民族は約6万年前に実質的に新石器時代を迎えていたのである。
それに対してヨーロッパ人が刃部磨製石斧を手にして大木を切り倒せるようになるのはせいぜい1万年前なのである。日本の技術はヨーロッパよりも5万年も先行していたのである。
そして世界各地で文明が興る前には必ず刃部磨製石斧が出土する。
大木を切り倒せない民族には都市など造れるはずもないのだ。
それは刃部磨製石斧を持った日本民族がやって来てその地で突然開拓を始めたのである。
⑪古代を解く鍵 その3:丸木舟
・ヘロドトス著/松平千秋訳 『歴史(上)』 岩波書店 228頁12行目から
【アレクサンドロス(パリス)はスパルタからヘレネを奪い母国に向かったが、エーゲ海にでてから…
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船は烈風に流されエジプト海へ入ってしまった。風が吹きやまぬまま、さらにエジプトに漂流してしまった】
これはトロイの王子パリスが、スパルタの王妃ヘレネを奪い去るシーンである。
この事件(パリスの審判)が原因となってトロイ戦争が起こり、トロイは滅亡することになる。
だが、この記述で注目してほしいのはトロイの操船技術である。
スパルタとトロイの間にあるのは穏やかなエーゲ海である。
そんな簡単な航海ですらトロイの船は難破してしまうのだ。
風に吹かれただけで本来なら北へ向かうべきところを、遥か南のエジプトまで流されてしまった。
古代エジプト帝国の船も穏やかなナイル川を上下するためのもので外洋航海は出来なかった。
・小川直樹著 『マダガスカル島:西インド洋地域研究入門』 東海大学出版会 181頁4行目から
【世界史的に見ると、船の帆を描いた絵はエジプトで紀元前3500年のものが見つかっているが、ナイル川を遡る川船に使われていた】
ヨーロッパ世界が、海流を乗り越える外洋航海が出来るのは15世紀になってからなのだ。
(ヨーロッパ人による)アフリカ南端の喜望峰の発見でさえ1488年になる。
ところが、縄文人は日本近海の世界有数の強い海流を横断する航海を行なっていたのである。
・谷口康浩著 『入門 縄文時代の考古学』 同成社 128頁5行目から
【縄文人の航海技術は高く、黒潮の強い海流を横断して伊豆諸島南端の八丈島とも往来があった。八丈島の倉輪遺跡から出土した中期初頭の土器には、北陸地方の系統の型式が含まれ、当時の移動と交流範囲の広さを物語っている。】
日本民族は太古の大昔から本格的な外洋航海を行なっていたのである。
それはいつからなのだろうか……。
日本民族のご先祖様たちは日本列島上陸前には遥か南方のカリマンタン辺りにいた。
そこで開発した刃部磨製石斧を使って丸木舟を造り、日本へ渡海して来たのである。
日本列島では約3万8000年前から刃部磨製石斧が出土しはじめている。
つまり約3万8000年前にカリマンタン辺りから薩摩半島の海岸まで、3000㎞以上の長距離外洋航海を成し遂げているのである。
それは紀元前360世紀であり、ヨーロッパ人の外洋航海より375世紀も先行しているのだ。
日本民族の外洋航海技術は他民族とは比較にすらならないほど高度であり、しかも完全に独走先行していたのである。
それを成し遂げるためには丸木舟が絶対に必要不可欠であった。
海部陽介先生が著された『サピエンス日本上陸 3万年前の大航海』(講談社)から見てみる。
海部先生のグループはまず草たば舟を造って外洋に乗り出した。
しかし、驚くほどの浮力と安定感はあったのだが、海流を乗り切ることは出来なかった。
次に竹いかだを造って挑戦したが、黒潮の巨大海流パワーを思い知らされる結果となった。
そして最後の可能性として刃部磨製石斧で大木を切り倒して丸木舟を造られた。
その丸木舟に乗って台湾から与那国島まで225㎞の渡海に成功されたのである。
3万年前の航海 徹底再現プロジェクト
沖縄諸島には最長220㎞の海域が存在しているが、その距離を制覇されたのだ。
そして沖縄の島々では3万年以上前の人骨が多数出土している。
その人々が沖縄の島々を舟で移動していたのは間違いのない事実なのだ。
3万8000年前頃に日本列島各地に刃部磨製石斧を遺したご先祖様たちは、沖縄の島々を伝って日本列島に渡って来たのであろう。
つまり、
ご先祖様は約3万8千年前に丸木舟に乗って日本初上陸を成し遂げたのだ。
≪史実と日本神話≫
海部先生が実証実験をされたように、長距離の外洋航海を行なうためには草束舟や竹筏のような軽い舟では海流に流されてしまい、またそのような水の抵抗を大きく受けてしまう舟では速度が出せない。従って、そのような舟であれば黒潮に流されたまま脱出することが出来ずに、太平洋のど真ん中に押し出されて死を迎えるしかない。
長距離の外洋航海を行なうためには丸木舟が絶対条件となる。その舟は重量があって海流にも抗(あらが)うことができる。そして、その外面を磨き上げることで水の抵抗を減らすことが出来、速度が出せるのだ。つまり「岩のような重量があって」、「天を駆けるような速度が出せる」舟なのである。それを『天の磐船(あめのいわふね)』と名付けて神話として残したのであろう。
⑫古代を解く鍵 その4:盃状穴
盃状穴(はいじょうけつ)とは石に刻み込まれた円形の浅い穴のようなものでる。
それを盃のような穴と表現しているのである。…
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これは何の為のものなのかよく分からないが、この不思議な盃状穴が世界中に存在している。
その全世界的な広がりを見てみる。
・国分直一監修 『盃状穴考 その呪術的造形の追跡』 慶友社 9頁本文1行目から
【ここに盃状の石の窪み―盃状穴―というのは、人類が旧石器時代(注:後期旧石器時代)以来、岩や石に、多くはなんらかの象徴的意味をもたせて、刻みこんだ単純な造形を指している。】
【黄教授(注:ソウル慶煕大学の黄龍渾教授)は、(中略)いわゆる性穴がスカンジナヴィア、フィンランド、中央アジア、シベリア、中国の新疆省一帯に発見されることに言及している】
同著ではこの他にも日本、韓国、台湾、ハワイなどの盃状穴にもふれられている。
韓国の教授はこれを「性穴」と呼び、国分直一教授も性シンボルの象徴と考察される。
またそれを「盃状穴」と呼んだのは江上波夫・木村重信両教授であると説明している。
・小川勝編 『フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合研究』 中央公論美術出版 155頁右段下19行目から
【最古の盃状穴はフランスの La Ferrassieにおける旧石器時代中期のもので、遺骸を覆う三角形の石灰石の裏面に一連の盃状穴が施されていた。旧石器時代後期になると、La Ferrassieのほか、Blanchard、Cellier、Laugerie-Haute(いずれもフランス)などに、新石器時代には西欧や北欧の全域にひろがり、特にスイスのCol du TrrentやZermattに多い。古代エジプトでは太陽ないし太陽神の象徴は、球体をはめこんだ大きな盃状穴であり、石碑にも多くの盃状穴がうがたれる。
同様の石碑はMalta島のTarxian神殿にもある。
アジアに目を転じると、シベリア、中国北部、韓国にも盃状穴が刻まれた岩面画が多く散在し、Sumatra島南部のPasemah高原には盃状穴を施した巨石がたくさんある。また南太平洋のパプア・ニューギニア、Marquesas諸島、Easter島などにもある。特に注目すべきはヴァヌアツの小島LelepaのFeles洞窟の岸壁に、数百の小さな盃状穴が1~数列に整然と刻まれていることである。この遺跡は海に近く、制作時期はカーボン・テストで910年のデータがあるので、フゴッペと状況が酷似している。
さらに、中米(Olmecaの巨石彫刻など)や南米(ブラジルのPiaui州やMato Grosso州の岩面画など)にも盃状穴が散見され、ボリビアのChimane族の古い遺跡には深い盃状穴を伴う女性器で覆われた丸石の集積があり、ここで現に祭儀がおこなわれている。】
このように古代世界では全地球規模で同じような盃状穴が広がっているのである。
日本でも古代から近世まで各地の遺跡や神社などに多くの盃状穴が彫られたが、とくに北海道余市町のフゴッペ洞窟の特徴は海外との共通性が指摘されている。
・小川勝編 『フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合研究』 中央公論美術出版 157頁左段10行目から
【フゴッペ刻画に似た、仮面または冠をつけた人物像は新石器時代のTassili n’Ajjer(注:大サハラ地区)から、近代の中部インド部族民や西アフリカのDogon族まで、各地に見いだされる。】
・同著 157頁左段下12行目から
【フゴッペ岩面画には手にP字形の物をもつ有角人が刻出されている。この種の持ち物の表現もTassili n’Ajjer、中部インド部族民、Dogon族などの岩面画にしばしばあらわれる。】
・同著 157頁右段6行目から
【狩猟、漁撈、舟と解釈されるフゴッペ岩面画と類似する表現も、世界各地にある。狩猟場面は中石器時代から現代まで至るところにあり、舟に乗る人物は特にスカンディナヴィア半島からシベリアにかけて多い。しかもその表現はフゴッペと同じ様式である。したがってフゴッペ岩面画は東北アジアとの関係が深い。】
★以前に解説したが、日本民族の第一回目の混血は弥生時代に起こり、それは東北アジア系の遺伝子との混血であったことに留意!!
このように盃状穴をはじめ世界多くの岩面画にフゴッペとの関係性が見られるのだ。
なにしろ現時点では、後期旧石器時代における外洋航海は日本民族にしか確認できない。
また、後期旧石器時代に石を研磨する技術も日本民族にしか確認されていない。
そして以前に解説したとおり、後期旧石器時代にあたる最終氷期にはヨーロッパ人は中部ヨーロッパには住んでいなかった。
つまり、
古代世界では全地球規模で共通文化があり、その担い手は日本民族である。
⑬古代を解く鍵 その5:屈葬
屈葬とは手足を折り曲げた姿勢で埋葬する方法であり、縄文人は屈葬されている。
その理由はシャーマンを通して理解することができる。…
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改めて解説するがシャーマニズムは日本民族発祥の信仰なのである。
シャーマニズム信仰では死んですぐの霊は悪事をはたらく、あるいは襲ってくると考えられていて、それを防ぐために様々な手段がとられる。
・ミルチア・エリアーデ著/堀一郎訳 『シャーマニズム 上』 (筑摩書房)では世界中のシャーマンの死者に対する考え方や対処方法が記述されている。
それを同著の346頁から347頁にかけての記述から見てみる。
【ゴルディ人は火葬のあとで死者に別れを告げるとき、妻や子供は連れて行かぬようにと頼む。】
【黄ウィグル人は死者に向かって「お前の子供や家畜を連れて行くな。お前の身のまわりの物も持って行くな」と言う。】
【もし死者の未亡人や子供、あるいは友人が後を追うように死ぬと、テレウート人は死者がその人たちの魂を持って行ってしまったのだと信ずる。】
【死者は非常に畏れられ、生きている人間の間に現れることのないように、あらゆる種類の予防措置がとられる】
【死んで間もない死者は畏れられ、死んでかなり時間の経っている死者は崇敬され、守護者としての機能を果たすことが要求される】
【葬儀を行なった人々は墓地から帰るのに来たときとは違う道を通り、死者に道を判らせないようにする。】
【墓地から村への道は何日か夜も見張りが立たされ、火がたかれる。】
シャーマニズム信仰を生み出した日本民族は、死んで直ぐの死霊のたたりを畏れたのだ。
そのために、死者の身動きを封じるために手足を折り曲げて埋葬したのである。
その畏れは縄文習俗を強く残すアイヌに近代まで伝わって残されていた。それも見ておく。
・ニール・ゴードン・マンロー著/小松哲郎訳 『アイヌの信仰とその儀式』 国書刊行 200頁下段
【墓地から戻る途中、参列者たちは清め草の束で自分たちの身体から悪霊たちを払い落として清めます。】
・久保寺逸彦著 『北海道アイヌの葬制――沙流アイヌを中心として――』 民俗学研究20/3-4
1956.12 158頁左段
【墓地では、死霊が後を追うことを恐れてか、何も死者には言わず、慟哭の声も挙げずに、帰るのだという。】
・同 163頁右段
【アイヌの死霊に対する恐怖感の著しい現われがある。】
・同 196頁右段
【葬式は、死者に対して生者との絶縁を宣する意味も強い。】
・同 197頁右段
【野辺送りから帰って喪家に入る時、或いはその翌日、更に一定期間の喪が明けた時に、この穢れを祓い清め、魔神を逐う修祓の儀礼が行なわれる】
このようにシャーマニズムでは国ごとに、アイヌでは地域ごとに対処方法は様々であるが、
その根底にある「死霊に対する著しい恐怖感」は共通しているのである。
縄文人は死者が襲ってこないように手足を折り曲げて身動きできないようにしていたのだ。ときには屈葬するだけでなく、紐でぐるぐる巻きにして更に自由が利かないようにしたり、重たい石を乗せて身動きを完全に封じ込めようとしたりしていた。
それでは、屈葬が始まったのはいつからなのだろうか……
実は12~8万年前のイスラエルにおいて、すでに屈葬が確認されているのだ。
・小野林太郎著 『海の人類史―東南アジア・オセアニア海域の考古学―』 雄山閣 49頁
【興味深いことに埋葬人骨のうち、成人男性のスフール4号は屈葬で埋葬され、手と手の間にはフリント製の掻器(注:皮をなめす石器)も発見された。】
【スフール5号はイノシシの下顎骨を両腕で抱いた状態で埋葬されていた上、海産貝類となるムシロガイ科の貝殻に孔をあけた貝製ビーズが2点副葬されていた。】
ホモ・サピエンスの人骨10個体があるスフール洞窟は12~8万年前の年代が得られている。
これは非常に重要な発見である。屈葬が縄文人の埋葬方法であることは述べた。
そして、イノシシ祀りは縄文時代の日本列島全土で行なわれていた。しかも、北海道や伊豆諸島などのイノシシが生息しない地域においても行なっていたほど重要な神事であるのだ。
さらに海産貝類を用いた貝製ビーズの副葬も縄文人の葬送儀礼である。
つまり、屈葬・イノシシ信仰・貝製ビーズの副葬という縄文信仰が、12~8万年前のイスラエルで、もうすでに誕生していたことが見て取れるのである。
そして遥か後世の世界各地で新石器時代が始まると、そこから屈葬された人骨が出てくる。
つまり、
屈葬という特殊な埋葬を行なう日本民族が世界の新石器時代を興した
と言えるかもしれないのだ。
ただし、これだけで結論を出すのはさすがに乱暴なので、可能性の提示としておく。
補足説明1
フリント製石器が出てきたが、打製石器の約6割がフリント製で、残りは黒曜石製である。
ホモ・サピエンスは日本列島に上陸した3万8000年前から黒曜石を利用し始める。
日本列島には良質な黒曜石の産出地が、列島各地に広がっているのである。
なお、太古のシベリアや朝鮮半島においても日本産の黒曜石が使用されていた。
補足説明2
イスラエルのスフール洞窟は12~8万年前の年代が得られていて、1920~1930年代にかけて埋葬人骨を含む10個体の人骨が発掘された。当初は発達したネアンデルタール人の人骨だと考えられていたが、近年ではホモ・サピエンスのものと考えられている。
(前出『海の人類史―東南アジア・オセアニア海域の考古学―』より)
ただし、屈葬・イノシシ信仰・貝製ビーズ副葬という3点にも及んで縄文人と共通していることから、単にホモ・サピエンスというだけでなく、日本民族のご先祖様の骨であると考えていいだろう。
⑭古代を解く鍵 その6:子供の甕棺葬
これまで後期旧石器時代の話が続いているが、子供の甕棺葬は縄文時代の話となる。
時代が飛ぶが、前回の屈葬の話の続きで先に解説することとする。…
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三内丸山遺跡でもそうであるが、各地の縄文集落において子供の甕棺葬(屈葬)が見られる。
それも大人の集団墓地とは違い、住居の入口付近に甕棺に入れて葬っているのである。
出入りする人々はその幼児や嬰児の遺骸を踏みつけて通ることになる。
何故そんな罰当たりなことをしていたのか、学者たちには誰も理解ができなかった。
ところが、アイヌのお婆さんはその理由を知っていたのである。
・梅原猛・河合隼雄監修 『長江文明の曙』 角川書店 100頁13行目から
【日本の縄文時代には、子供が死んだ場合に、甕をひっくり返しにして、家の入口に葬られるというならわしがあったんです。私はその理由がよくわからないし、考古学者もあんまりはっきり説明してない。ところが私がその話をいつかアイヌのばあちゃんに話したら、アイヌの子供が死んだ場合に、甕にさかさに入れてやはり部屋の入口、一番人が通るところに埋めるという話をしてくれました。なぜ埋めるかという理由は、アイヌのばあちゃんによれば、人間というものは必ず祖先の魂が生まれ変わってくるのだ。セックスによって子供が宿ったら、そのとき祖先の魂が宿って、女の胎に宿りそしてそれが子になって生れてくる。すべて人間の魂というものは祖先の魂が帰ってきたものだという考えがある。ところが、幼い子供が死んだのは、帰ってきた祖先に気の毒だ、せっかく遠いところから来てくれたのに、また遠いところに帰っていかなければならない。祖先の魂にすまない。それで死んだ大人はあの世へ送るんだけど、子供の魂は来たばかりなのであっちに送り帰すのはかわいそうだ。そこで、もう一度お母さんの体内に入って、次の子になって生れてこいという願いを込めてそこに埋めるのだと、そういう話をアイヌのばあちゃんはしてくれました。】
これは梅原猛さんがアイヌのお婆さんから聞いた話を所収してくれているのだが、ここから2つの重要な事実が分かる。
まず一点目は、
アイヌは縄文習俗の意味を伝え残しているのである。
おそらく縄文時代あるいは後期旧石器時代からの記憶を伝え残していたのだと思われる。
日本民族は日本列島上陸前、5~6万年前にはカリマンタンなど南方の島々にいた。
そこに当時でも陸続きになっていなかったフローレス島という島があるのだが、ここまでは原人レベルの人類も到達しており、フローレス原人と呼ばれている。
フローレス原人は最後の原人とされていて、約5万年前にホモサピエンスとの接触によって絶滅したと考えられている。(ただし、もう少し長く生き残っていたとする見解もあるようだ。)
そして、このフローレス原人には驚くべき特徴があり、大人になっても身長が1mほどにしかならないのである。脳と身体の矮小化という不思議な進化が起きたとされている。
そのあまりにも小さな人々を見て衝撃を受けたご先祖様たちはコロボックル伝説を遺した。
それは北部九州の邪馬台国(やまとこく)の人々にも伝承されており、その人々はその島を侏儒国と呼び、そこの住人の身長は3、4尺(約1m)しかないと伝えている。それが魏志倭人伝に記述されているのである。
つまり、後期旧石器時代初頭の記憶が北海道(おそらく東北にも)と北部九州に伝え残されていたのである。
第二点目は、
縄文人は輪廻転生を信じていたのである。
日本民族の死に対する潔さはここから来ているのではないだろうか。
人生がたった一度しかないと思っていれば殉死や切腹などを恐れ、躊躇したことだろう。
つまりご先祖様たちは、お釈迦様が悟りを開かれる前から輪廻転生を信じていたのである。
注)世界の宗教とシャーマニズム
世界中のシャーマニズムを研究されたミルチア・エリアーデは、シャーマニズム信仰が世界中の宗教に影響を与えているとしている。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教ほかすべての宗教にシャーマニズム信仰の形跡が残されているという。そして特に仏教以前のインド宗教に色濃く残っていると指摘し、「ボン教の僧は真性のシャーマンと何ら異ならない」とまで言い切っている。
その流れで縄文信仰の「輪廻転生」が仏教に反映したとも考えられそうだ。
⑮古代を解く鍵 その7:穿孔(せんこう)
穿孔とは石に穴を開ける技術であり、これは後期旧石器時代における革命的な技術である。
日本民族は後期旧石器時代から石を研磨したり穴を開けたりしていたのである。…
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富士石遺跡出土石製装飾品 – 文化遺産オンライン
この例のように日本民族は後期旧石器時代から石を加工することが出来たのである。
しかし、それは変な話である。
世界史では打製石器だけを使っていた時代を旧石器時代と呼び、磨製石器を使いはじめるとそこから新石器時代と呼ぶようになる。
日本では縄文時代以前を後期旧石器時代と呼んでいるが、日本列島では3万8000年前から磨製石器が出土しはじめる。
したがって、日本列島では3万8000年前から実質的に新石器時代を迎えているのである。
ちなみにヨーロッパ中部の新石器時代は前4000年~前2000年である。
それは日本から3万2000年も遅れているのだ。
これを知るだけでも日本の技術がいかに驚異的なほど先進的だったかが分かる。
また、ヨーロッパ人が磨製石斧を手に入れて大木を切り倒せるようになるのは、せいぜい1万年前だったとされている。
その時点で比べてもヨーロッパは日本より2万8000年も遅れているのである。
太古の日本の歴史は世界の中で完全に独走していたのだ。
そして後期旧石器時代から世界の古代遺跡では穿孔技術を伴う出土物がある。
それは以前にご紹介した盃状穴であったり石のビーズであったりする。
途中まで浅い穴を開けたものが盃状穴であり、小さな穴を貫通させるとビーズになる。
つまり
穿孔を伴う古代遺跡を遺したのは日本民族なのである。